太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中 (日本テレビ)

 2008/ 2/ 1(金) 20:00~20:54

マニフェスト:「国が病院を格付けし最低ランクの病院をつぶします」

元官僚というより現役医師としての初出演でボルテージは上がった。
医療崩壊を導いた政府の無策ぶりに対する私の怒りの発言をある程度放映してくれたようだ。

隣にあの西川史子さんがいて、一緒に「医師養護」した。彼女の高慢ぶりは、どうも「演技」のようで、実はフツーな感じの女性だった(実物の細さに驚き)

ところで、今回、ある人気芸人のサインをもらった。収録直前の控え室で共演者の山崎邦正がヒマそうにしていたので、「子供がファンです」と言って、手許にあったA4のコピー用紙と黒のボールペンを持って行ってお願いした。そんな粗末な紙にでも、彼は快く書いてくれた。その夜、自宅に持ち帰ると、お笑い好きな子らは「家宝にする」と喜んでいた。

TV収録に行って有名人のサインをもらったのは、今回が初めてであった。これまでもチャンスは何度もあったが、ほかにそんなこと(共演者にサインを頼む)する人もなく、いちおう「文化人」としての扱いを受けているプライドからか、どの芸能人にもサインはお願いしたことはない。(この後もない)

〔収録は1月28日(月)夜〕

出演者 : 山本モナ/原口一博/佐藤ゆかり/坂口力/自見庄三郎/西島英利/山本一太/藤原時/千原せいじ/千原ジュニア/伊藤隼也/南淵明宏/宮島伸宜/ユンソナ/和希沙也/金美齢/ケビンクローン ほか

爆笑問題の証人喚問 太田内閣がアノ関係者とっちめちゃうぞSP(日本テレビ)

2007/ 12/25(火) 21:00~23:03

「証人喚問」というスタイルでの「太田総理」のスペシャル版。

いくつかのコーナーのうち、元官僚(国会議員でない)4人が喚問されるコーナーに出演。放映ではカットされたが、私は、喚問者の一人、テリー伊藤と少しばかり言い合った。

ほかの3人の元官僚は、いつもの太田述正氏と、元通産官僚で会社社長の方と、以後「太田総理」によく出演することとなる、元厚生労働官僚・大学準教授で著書多数の中野雅至氏である。

〔収録は12月17日(月)夕方〕

出演者 : 山本モナ/福留功男/テリー伊藤/デヴィ夫人/東ちづる/えなりかずき/カンニング竹山/ふかわりょう/木下優樹菜/やくみつる/原口一博/平沢勝栄/島村宜伸/大村秀章/片山さつき/山本一太 ほか

太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中 (日本テレビ)

 2007/ 12/14(金) 20:00~20:54

マニフェスト:「不祥事を内部告発した人には国から賞金最大1億円をあげます」

先月に続き、同番組3度目の出演。

食品偽装が大きく問題になっていた頃で「内部告発」がテーマだ。

若林亜紀さんは、勤務する特殊法人のひどさを内部告発してジャーナリストになった方で、この番組にもしばしば出ていたのに、なぜか、彼女が主役となるべきこのテーマなのに出演がないとは?

〔収録は12月3日(月)夕方〕

出演者 : 山本モナ/原口一博/平沢勝栄/島村宜伸/大村秀章/小倉優子/高見恭子/安藤和津/金美齢/ケビンクローン/ふかわりょう/太田述正 ほか

太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中 (日本テレビ)

2007/ 11/16(金) 20:00~20:54

マニフェスト:「不祥事を起こした省庁は連帯責任で1か月間タダ働きにします」

1年半ぶりに「太田総理」から出演オファー。

不祥事を起こした防衛事務次官と同期の太田述正氏とともに、非国会議員・元官僚として出演。

このとき初めて会った金美齢さんから、収録後、(官僚やめて天下りしないでいる私に対して)「(医師という)資格があるといいわよね」と声をかけてもらったことが印象に残っている。

収録前の化粧室で、太った女性を見かける。後でわかったことだが、他のコーナーで出演するハリセンボンの一人だった。

〔収録は11月12日(月)夜〕

出演者 : 山本モナ/平沢勝栄/山本一太/片山さつき/山井和則/藤末健三/有田芳生/若林亜紀/ケビンクローン/ふかわりょう ほか

テレビ東京の夕方のニュース

2007/ 5/3(木) <番外編>

テレビ東京に初出演か!?と思いきや、単なる「街角インタビュー」。

この日の朝、ゴールデンウィークを利用して、家族で3泊4日の韓国旅行に行くため、成田空港にいたところ取材されたもの。取材直後に友人に連絡して録画してもらったものを帰国後見たら、見事「出演」していた。出国当日は群馬を早朝出発して成田に向かうため、髭剃りもサボって、寝不足で眼は充血、髪はボサボサなので、テレビにあまり出たくないお顔だった(笑)。

私が、いやしくも公共の電波に乗ってテレビという画面に顔を出させていただいたのは、以上ですべてだと思います。ビデオテープやDVDで録画し、残してはいるものの(初期の頃は、オンボロテレビに故障がちなビデオデッキしかなく、ましてやDVD録画機もなく、よく友人にお願いして録画してもらったものです。協力してくれた方々に感謝申し上げます。)、観返したことはほとんどない。いつも「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」と後悔と反省に打ちひしがれるからです。
〔将来、私が亡くなった後にでも家族に観てもらって偲んでもらえばいいかな・・・。〕

いずれにせよ、芸能人でもなく、政治家でもない、一介の町医者の私が、全国放送の、しかも、かなり高視聴率の人気番組に十何回も出演させていただいたということは、ある意味「快挙」でした。テレビ業界では視聴率1%で100万人観ているなんていうそうですが(私は数十万人ではないかと思う)、そうだとすると、(私の出た番組は10%強が多いので)1000万人もの人が私の顔と名前を観ていたことになるのですね(←ちょっと感動)。まぁ、すぐに忘れ去られていますが・・・。

以上のように、順調にTV出演を果たしたものもあれば、以下のように、話の途中でキャンセルされたもの、こちらから辞退申し上げたもの、撮影までしたのにボツになったものがあります。参考までに、ここにお示しします。

まぼろしのTV出演

●2010年5月22日(土)午後、日本テレビ・朝の報道番組「スッキリ!!」から電話来る。
24日(月)に天下り問題やるので生出演しないかと。
やはり、代診どうしようかと考えている間に、再度電話来る。
「出演交渉中だった蓮舫さんが出演することになったので、河辺さんは結構です」と。
蓮舫にかないっこないわな。(ほとんど毎朝観ている番組だけに残念。)


●2010年5月6日(木)午後に、3月27日付け朝日新聞「私の視点」の私の投稿「日本脳炎 ワクチン未接種者に配慮を」を読んだNHK記者から連絡あり。
「日本脳炎ワクチンについてNHK夕方の「首都圏ネットワーク」で報道したい。
ついては、木崎クリニックに取材に行きたい」とのこと。

その後、何度か電話とメールでやりとりする。「これから企画書を社内で上げていく」というメールをもらったが最後、以後、音沙汰なし。
企画倒れか・・・。
初のNHK出演、しかも、純粋な医療問題での出演の夢、破れたり・・・。


●2008年9月24日、テレビ朝日「TVタックル」のディレクターから電話が来る。
10月6日オンエアの官僚特集で、元官僚の1人として出てみないかと。
ただ「官僚批判する立場で発言してほしい」と言われたため、(今までの自分の官僚擁護スタンスと違うので)難色を示しているうちに、後日「出演は結構です」との連絡あり。


●2008年6月17日、テレビ朝日「大胆MAP」から電話から来る。
7月13日オンエアの転職コーナーで紹介したいと。後日、担当ディレクターとメールやりとりするも、結局辞退することに。


●2006年1月11日、年末から誘われていた、テレビ朝日のある番組(何かマニフェストのようなものを主張する番組)に出演するためのオーデションに参加した(テレ朝で)。
白衣まで着て参上。
テーマは何でもよいということだったので、持論の「理系優遇論」をぶちまけた。
審査員は丸山和也弁護士と松居一代さんだった。
私の話を聞いた丸山さんは「高校のとき、すごい優秀なやつが理系にいたけど、確かに今あまり恵まれていないねぇ」と頷いてくれた。が、結果は落選だった。
後日のオンエアでは、プレゼンテーターの出演者は有名人がほとんどで、その一人は田嶋陽子さんだった。
もし、受かっていたら、スタジオで田嶋先生に再会できたのになぁと残念がる。


●ずっと溯って、1990年頃の話。当時、東大教養学部理Ⅲ生だったときのこと。
以下、拙著『おじさん医学生奮闘記』(エール出版社)から抜粋。
「実は、理Ⅲの学生のとき、フジテレビだったかテレビ朝日だったか忘れたが、やはり官僚を辞めた人間の特集ということで、取材の話が来た。
まず、自宅に担当者から電話がかかり、私も調子に乗って政治家や官僚の悪口を言っていたら、後日是非取材したいということになり、駒場のキャンパスで待ち合わせることとなった。
当日は、生憎小雨降る天気だったが、テレビ局のスタッフが何人か来ていた。インタビューは、学生食堂の中で行うことにした。
ライトに当たって緊張したせいかもしれないが、私の話に先日電話でまくし立てた勢いがなく、インタビューアーもがっかりしたようだ。
実は、政治家批判はともかく、官僚批判は、まだ現役でいる多数の友人達に悪いと思い、あまり出来ず、更に生来の口下手さが前面に出てしまったのだ。
インタビューの後、「同級生と一緒に歩くところを撮らせてください」と言われ、若い同級生何人かと談笑しながら歩くシーンを撮ってもらって取材は終了した。
結果は、「ボツ」であった。私の代わりに通産省(現経済産業省)を辞めて父親のホテル業を継ぐことになった人のことが報じられていた。
私は、そんなにテレビに出たいとも思っていなかったので、たいして失望もしなかった。
ただ、一緒に撮影した若い同級生の中にはテレビに映りたかった人もいて、その人達にはすまないと思った。」