【甲子園では、二年連続で愛媛県勢と群馬県勢が初戦対決した。愛媛県で生まれ育ち、今群馬に住む私はにどちらを応援していいかわからない。】
〈愛媛県人の誇り?〉
「群馬」というと「馬が群れる」で、決してエレガントなサウンドはない。ところが、「愛媛」というと「愛らしいお媛さま」となる。地区の医師会の飲み会で地元の医師からこんな「笑い話」を聞かされた。あぁ、こういう考えもあるんだなと初めて思った。子供の頃から県名のおかげで「媛」の字が書けたが、全国スタンダードでいえば、ふつうは「姫」で「媛」の字は「才媛」などの熟語でない限り、使わない漢字である。
私が、東京にいた間(25年)も、群馬に住み始めても(13年)、「出身は?」と聞かれて「愛媛」と答えるのに何となく自信を持っていたのは、実はこの47都道府県中「最も美しい県名」(画数は多いが)であることの誇りを無意識のうちに醸成していたのかもしれない。
〈上州弁との出会い〉
群馬の地に診療所を開業して、最初戸惑ったのは上州弁だった。なにしろ地元の人は自分の言語が標準語だと信じている。上州弁で自覚症状を説明されると部分的にはわかるが、全部はわからない。ネイティブスピーカーのスタッフに何度となく助けられたものである。爾後十余年、上州弁の研究に勤しみ、いまや患者さんの話はほぼ完璧に理解できている。
自分の言葉が標準語だと思うのは上州人だけではない。二十数年前、私の父母と妻の父母が初めて会したときのことだ。かたや訛りの強い大洲市上須戒(かみすがい)の方言、かたやコテコテの上州弁で会話が全く成立せず、妻と私が「通訳」して意思疎通を図ったものだ。
〈上州弁はまだ私にとって第3方言か?〉
私にとって、馴染みのある外国語は①英語②ドイツ語③フランス語の順であるが、日本語では、得意な順に①伊予弁②東京弁(標準語)③上州弁となる。18歳までの言語形成期の環境の影響が大きい。語彙だけでなく、幼少期に染み付いたイントネーションは一生抜けない。妻にはいまだ訛っていると言われる。最近は上州弁の環境下にあるため、私の発音は、愛媛・東京・群馬の三方言の混在となっている。
〈上州弁と伊予弁の相似〉
さて、上州弁の語彙を増やす中、いくつか愛媛の言葉に酷似するものを十数個ほど「発見」した。愛媛と群馬、こんなに離れていてなぜ似た方言があるのだろうか、と疑問に思っていたところ、私の住む太田市と今治市が姉妹都市であることを知った。ここに住み始めて数年経た頃だろうか。
〈南北朝時代に起因?〉
両市の関係は、はるか650年も前の14世紀、南北朝時代に遡る。私の住所は、今でこそ太田市だが、2005年の「平成の大合併」の前は新田郡新田町(ちなみにあの斎藤祐樹投手の家族は旧新田町在住)だった。上野国発祥の豪族・新田氏に由来する「新田町」である。かの新田義貞の出生地だ。その弟・脇屋義助(わきやよしすけ)が義貞亡き後、中国・四国方面の総大将として、500人もの家来を引き連れて四国に渡り、今治の地で活躍したらしい。義助の死後、残った一族及びその子孫が伊予の国に上州の文化(特に言葉)を多少なりとも植え付けたと考えると、十個とまでいかなくとも、数個くらい上州生まれの伊予弁があっても不思議ではないような気がする。日本語学者でもない私の思い込みかもしれないが、そう考えるのも楽しいものだ。
【私の近所に、義助に由来する脇屋町という町がある。また、兄・義貞の館跡とされる安養寺殿を前身とする明王院も近くにある(所在地が安養寺町)が、そこには義助を追悼する板碑があるそうだ。】
〈伊予弁・上州弁相似形の例〉
私が「発見」した伊予弁・上州弁相似形の例の一部を挙げてみる。両方言同一のものとしては、「動く」;イゴク、「驚かす」;タマガス、「盗む」;ガメル、などがある。驚いたものとしては「つらい、きつい、だるい」の意で「コワイ」があることだ。ただし、この用法は、高校時代を過ごした松山市ではほとんど通じなかったので、愛媛県でも南部のごく一部の地方でしか用いられないのかもしれない。ほかに、似ているものとして、終助詞の「・・・らい」(伊予弁)「・・・らいネー」(上州弁)があるほか、「最下位」;ゲツッポ(伊)・ゲッピ(上)、「ませていること」;シューク(伊):ジューク(上)「うたた寝」;ヨドコロネ(伊)、イドコロネ(上) などがある。