・・・・・・・・・・・・・河辺啓二の旅行記(8)
「平成→令和」の連休を利用して家族旅行したが、今回最も印象に残ったのは長崎県の世界遺産「軍艦島」(正式名称は端島(はしま))だ。ここが世界遺産に登録されてから興味はあったが、今回やっと実際に観て島の地を踏み歩くことができた。
そもそも長崎県を訪れたのは何年ぶりだろう。愛媛県にいた中学生時代の修学旅行以来かな(ウン十年ぶり)。官僚時代、九州に出張で来たような覚えがあるが、何県を訪れたか記憶が定かではない。農林水産省というところは何しろ地方が行政の重きとなるので、北は北海道から南は沖縄(石垣島)まで日本全国いろんなところに出張させてくれた。その記憶も時の経過とともにあやふやになってしまった。
せっかく長崎県に来たからと、やはり世界遺産のグラバー園や大浦天主堂をも見学したが、運悪く、メインの旧グラバー住宅は工事中だった。
さて、軍艦島。常盤ターミナルというところから乗船、船に乗って、やがて軍艦島の見える箇所で周遊、その後上陸。そこの案内人(コンシェルジュ)が凄かった。「成人式は4回済ませました」という年齢にも関わらず、まさに矍鑠(かくしゃく)、背筋はピシっとし、すたすた歩き、また、マイク持っての解説がとてもおもしろく、上手。ここ軍艦島の炭鉱で働いていた人で今も観光案内している現役が2人いて、この方がそのうちの1人らしい。この素晴らしいガイドのお蔭で昭和30年代にタイムスリップした感があった。元の波止場まで戻るまで約3時間の楽しい「軍艦島ツアー」であった。
以下は公式HP「軍艦島上陸クルーズ」(www.gunkanjima-cruise.jp/about.html)からの抜粋。
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日本の近代文化を支えた端島(軍艦島)
1810年(文化7年)ごろ、端島(通称:軍艦島)で石炭を発見。
それから80年ほど経過した1890年(明治23年)、三菱社が島全体と鉱区の権利を買い取り、本格的に石炭の発掘が開始されました。
端島炭鉱の石炭はとても良質で、隣接する高島炭鉱とともに日本の近代化を支えてきました。
石炭出炭量の増加に比例するように島は急成長を遂げ、1960年(昭和35年)には5,267人が住んでいました。
当時の人口密度はなんと世界一。東京人口密度の9倍以上とも言われるほどでした。
島内には、病院や学校・寺院・神社・派出所や映画館・理髪店などが立ち並び、島の施設だけで何不自由のない完全な都市として機能していた。
しかし島の半分以上は鉱場。
その残りの土地に病院や学校・寺院・神社・派出所や映画館・理髪店などが立ち並んでいたため、建物と建物の間はとても狭く、島全体が家族のように仲良く暮らしていました。
繁栄を極めた軍艦島でしたが、、主要エネルギーであった石炭がその座を石油へと移ることにより衰退の一途をたどります。
1974年1月15日に閉山、この年の4月20日に全ての住民が島から離れ、軍艦島は無人島となりました。