・・・・・・・・河辺啓二の政治・行政論(3)
〈事務次官がなくなる?〉
公務員制度改革を担当する仙谷由人行政刷新相が、とうとう事務次官廃止論をぶちまけた。「社長のほかに事務方のトップがいるような組織形態は見たことがない」というのが理由らしい。
一般的な会社組織を基準に考えれば、妥当な発想かもしれない。大臣を「社長」に例えると、副大臣、政務官は「重役」。だが、実情はその下に位置するはずの事務次官が、官僚たちにとっては「我らが社長」となっている。官僚にとってみれば、大臣という社長はコロコロ変わる「お客様」の社長に過ぎないのが現状であった。
しかし、「政治主導」新政権の仙谷大臣は、省庁という三角形の頂点に、大臣等政治家がいて、残りの「台形」部分の「上底」部に官僚のトップとして各局長を置くという考えのようだ。
かつて、東大を卒業し、中央官庁に就職し、目指すは事務次官というのが、立身出世の典型だった。「官僚たちの夏」でも登場した、いわゆる「次官レース」というのは、どこの民間会社でもある「社長レース」同様、当該組織で働くモチベーションになっていることは否定できない。「エラくなるために働く・努力する」というのは、果たして卑しいことなのだろうか。官僚たちの目指す頂点のポストが廃止されれば、どうなるだろう。省庁全体として継続的に政治家と事務方を繋ぐ事務方トップがいなくてよいのだろうか。事務次官を目指して粉骨砕身中の中堅官僚たちのモチベーションが下がりはしないだろうか。
〈最も悲惨なのは中年官僚たち〉
それにしても、明治以後綿々と続いてきた事務次官会議の廃止を実行したと思いきや、今度は事務次官そのものの廃止とは・・・。霞が関で働く40歳代以上の官僚たちのためいきが聞こえてきそうだ。
今、40歳代、50歳代の官僚たちは、まだ、官僚という職業がある程度憧れられた時期に、入省してきた者たちだ(もっと若い世代は、「官僚の前途は厳しい」ことを踏まえて官僚になっているので、今更そんなには落胆していないだろう)。営利追求の民間企業で働くより、天下国家のために働こうという美しい志を持っていた(かくいう私もだ)。ただ、旧態依然とした巨大「官僚組織」の中でいるうちに、だんだん「保身」の傾向が強くなり「変化」を嫌う人種に劣化していく。そして、妻や子の扶養や老後の生活が大事となり、「天下り」でもして現役時代の安月給の補填をしてもらおうと考えるようになる。
官僚バッシングが当たり前の世の中になってしまい、妻子が世帯主の職業を隠すほどに「官僚」のイメージは下落した(例:幼稚園に通う子供をもつ母親が、夫が官僚であることを母親仲間に隠しとおす)。もう、「天下り」はできないだろう。そのぶん、定年の60歳まで役所は雇ってくれるだろうか。仮に減給の上で60歳まで雇ってくれたとして、その後は年金支給時期につながるのだろうか。結婚が遅い者だと、60歳くらいでは、まだ、大学生の息子や娘がいるかもしれない(いや、高校生かも)。カネが最もかかる年頃だ。「天下り」先の高給や退職金で娘の嫁入り支度をと思っていたのに、なんてこともあるかもしれない。
〈官僚が民間で使いものにならない理由〉
それでは、「天下り」なんか、あてにせず、自分で道を拓けよ・・・世の中の論調として、「官僚は、天下りなんかしないで自力で再就職せよ」というのがある。一見ごもっともだが、役所という職場で20年以上働いてきた人間が民間で使いものになるだろうか。
①経営感覚なし、コスト感覚もありません
②経理とか会計とか、全くわかりません
③接客業なんかしたことありません(そもそも人にアタマを下げる習慣がない)
④したがって、お客に対する正しい敬語の使い方を全く知りません
⑤東大等一流大学を出ているのでプライドが高いです
⑥法律の文とか国会答弁書とかなら書くのが得意です
⑦役所でそこそこの給料(官僚は若いときは薄給だが、エラくなると結構高給になる)をもらっていたので、まぁ年収1000万円は頂きたいです。
ざっと言うと、こういうのが霞が関のキャリア官僚たちの求職条件だろう。こんな人間を雇ってくれる民間企業ってあるだろうか。
要するに、20年以上も「官僚の世界」にどっぷりと浸かっていると、上記のような求職条件の人間になってしまう。いわば、世間的に見れば、handicappedの人間なのだ。だから、役所に準じた○○法人の中で仕事させるしか、活用方法がないのである。そう考えると「天下り」はこのようなhandicappedの人間の救済措置であると言うことができる。
〈こんな「隠れ天下り」もある〉
国税庁・税務署OBは無試験で税理士になれるというのは、全く厚かましい「天下り」にほかならない。仕事しながら、又はそれ専門で、一生懸命に受験勉強してきた人たちから見れば腹立たしいに違いない。この不景気の中、税理士試験は、資格の中でも(司法試験、公認会計士試験ほどでないにしろ)難関となっている。ある税理士の方が、国税庁・税務署OBも、せめて税法1科目と会計1科目くらいは受験させ合格することを資格取得の条件とすべきだと主張されていたが、至極まともなご意見だと思う。
やはり、この仕組みも、国税庁・税務署が財務省の組織であることに鑑みれば、「霞が関の財務省支配」の一つといっても過言ではない。
〈「大蔵支配」は続くよ、どこまでも〉
「大蔵支配」「財務省支配」が続く。「脱官僚」を御旗に政権を奪取した民主党だが、この3か月やっていることをみれば、???だ。そもそも財務大臣が大蔵OBだし、大騒ぎした日本郵政の社長も大蔵OB、そして、話題の「事業仕分け」も財務省主導。こうやって見ると、もともと、民主党は、「脱官僚」といいながら、政権運営のためには、100%官僚と縁を切るわけにいかず、官僚機構の中核・中枢の財務省と結託することとしたと考えるのが妥当だろう。
そこで、思い出すのが、あの故中川昭一財務大臣の「酩酊会見」。
官僚は、大臣に恥をかかせないのが当たり前の大前提。あの麻生首相が漢字を読めないことを暴露させたのは首相側近の官僚たちの無能さゆえ(麻生さんが外務大臣や総務大臣のときは、そんなことはバレなかった。外務官僚や総務官僚がうまく隠していたのだ。)と思われる。まさか、自民党政権末期を確信して、首相官邸官僚が民主党と連携して「首相無学」を世間に知らしめようとしたわけではないだろう。
中川さんの場合は、どう考えてもおかしい。ローマに同行した多くの財務官僚たちは何をしていたのか。彼の記者会見前の状態を見て、「体調不良につき会見中止」あるいは大臣代理が会見するなど措置を講じることができなくはなかったはずだ。つまりは、水面下で民主党と連携していた財務官僚たちが自民党下野への決定打の一つとして、「よいどれ会見」を行わせたに違いない。
ということで、大蔵省から金融部門がはがされ、財務省に省名変更され、霞が関でのダントツ地位が若干ながら地盤低下していたところで、民主党への政権交代をテコに、再び霞が関ダントツ省庁に復権したのだ。
〈やはり心配な日本の将来〉
たかが群馬の田舎の「一介の町医者」ながら、日本の将来を心配している。「河辺啓二の主張」でも述べているように、官僚のなり手が昔より減っている。今の状態を見れば、多くの若者が、一般の省庁の官僚なんてなりたいとは思わないだろう。まぁ、財務省ならいいかな、ってところか。その財務省でさえ、「質の低下」が顕著になっているという。
マスメディアが「官僚」をあまりに「悪者扱い」しすぎた。このまま、官僚の質低下が続くことは、我が国の行政の劣化が起こることにつながる。だが、最近になって、わずかながらこのことを見直す発言をする人が出てきている。今年7月に私がVTR出演した、日本テレビ(読売テレビ)「情報ライブ ミヤネ屋」の中で、司会の宮根誠司が次のようなことを言っていた。
「(関西大学しか出てない)私ら、遊び回っている頃、一生懸命勉強して東大入って官僚になった人だから、高い給料もらってええんじゃないか。」
このことに、コメンテーターの春川正明も同調していた。私も、テレビを見ながら、笑い、頷いたものだ。