2020 明けましておめでとうございます
人生100年時代到来と喧伝される現状に鑑み
昭和・平成・令和の3年号を強かに健やかに
生き抜いて参りたいものですね
令和2年もよろしくお願い申し上げます
記事一覧
新年のご挨拶
天才建築士
私の知人で、とても芸術的センスのある一級建築士がいて、定期的に楽しい葉書を送ってくださる。今回も裏面の作品を見て思わずうなってしまった。上下を逆にすると「平成」⇔「令和」と読めてしまう。凄い才人だなぁと改めて感心したことだ。
〔この天才建築士の本ブログ登場は、2017年4月15日付け「忖度(そんたく)」以来2度目です〕
2019・頌春
退職・結婚・医学部入学で幕開けした平成時代は、
4人の子の子育てに追われつつ、開業医業務に
齷齪しているうちに過ぎ行こうとしています。
生まれ育った昭和、家庭を築き上げた平成に続く
新元号の時代は、私たちにとって人生第三幕となります。
子らの自立、そして軈て訪れて来る筈の悠然自得の老後生活を
目指して「当分の間」忙しい現役生活を走り続ける所存です。
五木寛之の「孤独のすすめ」を読んだ
〔私の読書習慣〕
私は、もともと「文学青年」でもないし、大した「読書家」でもない。年取ってからというものの、ほとんど文学作品を読まなくなってしまった。もっぱら、「教養書」的な新書とか、医学・医療に関係ありそうな、食事、運動、睡眠について書かれた、いわゆる「健康本」的なものが多い。最近は歴史的な本が多いかなぁ。
読み終えた本の数は多くない。年間20冊前後というペースだろうか(2017年は、25 冊だった)。かと言って本の購入が少ないわけではなく、毎朝読む新聞の下段の新著広告で「ん、読んでみたいな」と思うものがあるとそこの部分を切り取って行きつけの書店で購入、又は在庫ない場合は注文する。そんなことしているわりに、読むのが遅いため、いわゆる「積読(つんどく)」状態になっており、忸怩たるものはある。
〔初の五木寛之著作〕
さて、五木寛之の著書を初めて読んだ。大歌手「五木ひろし」芸名の元となる大作家であるが、私はこれまで「青春の門」など代表作も含め、彼の作品を一度も読んだことがない。それが、今回初めて彼の著書「孤独のすすめー人生後半の生き方―」を読むことに。まぁ、私自身が「人生後半」の域に達していることを認識したためである。
まず、少し驚いたのは、五木寛之が1932年生まれで80歳代半ばにもなっているということ。もうそんな高齢なんだ・・・と感じた。
〔人生の区分〕
50歳からは、人生の「下山期」だという。中国では、古来、人生を4つの時期に分けて考えるとか。
青春(せいしゅん)
朱夏(しゅか)
白秋(はくしゅう)
玄冬(げんとう)
と4つの季節が巡って行くのが自然の摂理。玄冬なのに青春のような生き方は無理。「下山期」には、後ろを振り返り、ひとり静かに孤独を楽しみ、思い出を咀嚼したほうがいい。回想は誰にも迷惑をかけずお金もかからない。孤独を楽しむ人生は決して捨てたものではないと。
古代インドのヒンズー教に生まれた概念にも、人生を4つの「時期」に分ける考えがあるらしい。
0歳~25歳・・・学生期(がくしょうき)
25歳~50歳・・・家住期(かじゅうき)
50歳~75歳・・・林住期(りんじゅうき)
75歳~ ・・・遊行期(ゆぎょうき)
私は、今まで、人生の4区分といえば、春(~20歳)、夏(20歳~40歳)、秋(40歳~60歳)、冬(60歳~)と思っていたが、そうか、人生80年→100歳となりそうな超長寿社会、また、晩婚・非婚社会になりつつある現在の日本においては、25歳ごとの区分のほうが適合しているようだと気づかされた。
〔孤独は好きだが・・・〕
さて、私自身は、結構「孤独」が好きだ。あまり喋るのは得意なほうではないし(生来の口下手・・・TV出演の際に痛感する)、好きでもない。話す際の機転の利かなさは十分自覚している。「医者」という職業ゆえ、仕事中つまり診療中は患者さんを前に喋り続ける。患者さんを前にしてだんまりすることはありえない。となると、1日、7~8時間の診療中ほとんど喋らなくてはならない。その反動だろうか、仕事を離れると、家族といるときなど、あまり喋りたくない。一人で、本を読んだり、テレビを観たり、音楽を聴いたり、勉強したりするのが好きだ。だから、五木寛之の言うように「孤独を楽しむ人生」は大賛成だ。でも、現在の私は、まだ、後ろを振り返ったり、パロディー思い出を咀嚼したりと「回想」に生きる人生は、当分、後にしようと思っている。まだまだ前ばかりを見て走って行かなければならないのだ。
(この本に続き、「百歳人生を生きるヒント」を購入し読み始めたところである。)
似顔絵描きは楽しい
日本似顔絵検定協会から、これまでの検定合格者あてに「お願いランキング」というテレビ番組出演募集の連絡が来た。どんなものかなぁと今年の年賀状で使ったポール・マッカートニーの絵を送ったところ、「もうちょっと写実的な絵は描けるか」と返事が来たので、ミャクあると思い、ストーンズメンバーの絵を描くこととした。
平日の夜、診療の仕事を終わってからだが、意外と楽しかった。なかなか似せて描くのは難しいものだと再認識する。ついでに子供の中で最も絵のうまい長女にも描かせて(アヴリル・ラヴィーン)一緒に送ってみた。
結果は「ボツ」。検定協会内で不合格だったかのかもしれないが、来た通知によると、協会から推薦された応募者でテレビ局のメガネにかなった人はいなかったらしい。
「月刊ザ・ビートルズ」に再び登場!
昨年末に年賀状をザ・ビートルズ・クラブにも送ったところ、
同発行の「月刊ザ・ビートルズ3月号」に「見事」採用されました。昨年は、11年ぶりのポール来日とあって、ポールにちなんだ年賀状ばかり(似顔絵、写真など)が8点掲載されていましたが、その殿(しんがり)に私の「作品」が載っていました。同誌に登場したのは、3年前の「メルトダウン」替え歌(2011年8月21日ブログ参照)以来ですね。
A New Year Just Begun
本年もよろしくお願いいたします。
Paul MacCartney去り、次は Rolling Stonesかな、でも1~2年先のことだろうと思っていたら、まさかの(Paul来日からわずか3か月で)来日決定です。
Mick Jaggerも御年70歳!これが最後の日本公演の可能性が大きいだけに今回が「見納め」かなぁ。
(今年似顔絵検定準1級合格を目指す私の「作品」です。若い時のベビーフェイスのPaulと違って71歳のPaulの顔を似せて描くのは意外と難しい。大きい眼と皺(しわ)のバランスが・・・。)
2011年回顧録
〈「想定外」の2011年〉
2010年は、妻の母が71歳で急死し、私と妻にとっては最悪の年だった。今年こそはよい年になるだろうと楽観して迎えた2011年の70日め(3月11日)にとんでもないことが起きてしまった。(天国の義母は何と思ったことだろう)
〈震災後の苦悩〉
当ブログでもたびたび取り上げてきた。「東日本大震災」という分類を新たに設けたほどだ。この未曽有の災害及びそれに伴うあのフクシマで私たちの生活態度が変化したことは明らかだ。地震後、私は医師として、同じ日本人として、いや人として何かすべきではないかと自問自答で悩んだ。多数いる「私の患者さんたち」を放って東北に行くわけにもいかない。実際、聞いた話では、私の周りで休診して被災地に駆けつけた医師はいないようだった。やがて医師会から被災地へ医師派遣募集の知らせが来た。ただ、救護活動でなく、遺体の死亡診断のための医師が不足しているということであった。確かに被災してほとんどが(命が)助からない人ばかりだから、治療する医師より死亡診断する医師のニーズが高いということであった。「死亡確認かぁ・・・」私と同じように溜息をついた医師は多かっただろう。結局、多くの歯科医の先生方のご協力により、遺体確認が遂行できたらしい(遺体の確認は、歯型でも行う)。
被災地で生まれ育った、あるいは被災した東北三県の医学部を卒業した医師の中には当該地に向かった人もいたようだ。東北に全く縁がない私はついついここ群馬にとどまって、「計画停電」などの不便な生活をしつつ、日常の診療を続けた。震災関連の診療といえば、たまに、福島県南相馬市などから避難してきた患者さんが(災害とは関係のない普通の病気で)来院してきたことがある程度だ。
〈義捐金で罪滅ぼし〉
被災地のために何もしないのは、と自責の念に駆られ、せめて、義捐金くらいは送らねばならないと考えた。自分の経済力等を勘案し、自分なりに出せるだけの金額を日本赤十字社に送金した(私なりの罪滅ぼし)。3月中だったと思う。しかし、全国から送られてくる義捐金が当該地に迅速に的確には配分されていないことをニュースで知り、落胆した。「ああ、これが日本のお役所仕事なのだ」とまた溜息が出たものだ。
〈新聞で意見を発信〉
ほかに、震災に関して私が実行したのは、全国紙(朝日・読売)への投稿と今年コラムを担当した愛媛新聞で反原発を世に訴えたことである。朝日新聞「声」と読売新聞「気流」の投稿掲載は、震災までは結構高い確率で実現した。しかし、震災後は全国からの投稿数が激増したらしく、掲載は「激戦」となった。当ホームページ「メディア(その他)」を見ていただければわかるが、震災後は、私の投稿回数を増やしたにもかかわらず掲載頻度は「苦戦」を強いられている状況だ。
奇しくも、今年は、生まれ故郷・愛媛県の地元紙「愛媛新聞」の日曜コラム「道標」の執筆を担当させてもらった。一年で10回の掲載だが、当初、あれこれと構想を練っていた。予定どおり、1回目の「官僚論」、2回目の「医療行政論」を書いたが、その後に震災・原発事故が起きた。このため、3回目以降は原発に関することを何度か書くこととした。よって、当初構想していた少子化政策や教育行政など、訴えたいことが全部書けないまま、12月の最終回となった。ちょっぴり不完全燃焼だが、いたしかたない。地元の愛媛県は「伊方原発」を抱えているため県民の原発への関心は高く、一部住民に私の反原発論はかなり好意的に受け入れられたようだ(四国電力には嫌われただろうなぁ)。
〈今年は私的にも悪い年だった〉
震災・原発事故は、日本いや世界を震撼させたが、私のプライベート生活でも、(昨年に続き)今年も悪い年だった。自らはダイエット効果で血圧も内蔵脂肪も改善して「健康勝ち組」になりつつあるが、ごく近い人が相次いで重病に陥った。二人とも昔からよく知る人で、ともに脳血管障害であった。両人とも、私と年齢が近い(そういえば、今年亡くなった、あのスティーブ・ジョブズは私と同い年だし・・・)。「明日は我が身」と思わざるを得ない。ご両人の1日も早い回復を祈念してやまない。
人生を楽しむ―真の「勝ち組」とは
〈なぜ官僚を辞めたか〉
中央省庁課長補佐まで務めながら辞して医学生になったことは、霞が関で当時多少話題になったらしい。私以後も、技官の人が同様に医学部再入学する例はあるが、私のように事務官から医師になる例はいまだ聞いたことがない。
医学生時代、そして医師になってからも、マスメディアから何度も取材を受けた。必ず聞かれるのは「なぜ官僚を辞めて医師になるのか」という問いであった。私が退官した1989年頃は、官僚にまだそんなに悪いイメージはなかった。90年代以降に次々と各省庁の不祥事が明るみになり、官僚バッシングが高まった。あたかもそれを見越しての転身劇のようだが、私にそこまでの先見の明があったと自惚れてはいない。
国家・国民より官僚組織の保持・保身に主眼をおいた業務、尊敬できない(無能な?)私欲政治家への強制従属、そして劣悪な労働条件・・・、官僚の仕事に嫌気がさした理由は幾つもあるが、年を取ると「肩叩き」され、定年前に(存在意義の乏しい)ナントカ法人に天下りさせられることに危機感をもったことが大きい。退官後の五十歳代後半からも役所のお世話になって生活していかなければならない。
〈転身決意に影響した父の生き様〉
そこで、思ったのが、88歳で亡くなるほぼ直前まで「現役農民」だった父のことだ。父は明治37年(1904年)生まれで、末子の私が生まれたとき51歳手前であった。子供の頃は、同級生の親に昭和生まれが多い中、父が明治生まれ、母が大正生まれというのは、少し恥ずかしく思っていた。父は大洲市上須戒(かみすがい)という過疎地に生まれ育ち、生涯、他の地に住むことなく、上須戒で一生を終えた。尋常高等小学校しか出ておらず、職業はお百姓で、毎日汗や泥まみれの肉体労働をしている父の姿を見て、幼い私はいっぱい勉強していい学校を出て綺麗な服を着て綺麗な仕事をする職業に就きたいと思っていた。長じて、東大を出て、思いどおり、少なくとも当時はエリートとされた官僚の職を得た。しかし、官僚の仕事に失望した。しかも、将来、60歳前に隠居のような生活になるのか・・・。父は80歳過ぎても仕事場(田畑)に出かけていたではないか。
〈医師を選んだ理由〉
32歳のとき「脱官僚」ならぬ「官僚脱出」を目論んだ私は、体力的にも芸術的にも才能が乏しく、話術の才も商才もない自分が、能力を発揮できるのは「勉強」しかないと考え、苦手なディベートも駆引きも不要な職業・医師になりたいと思った。一生懸命働くことがかえって国民のためにならないかもしれない官僚の仕事と違って、医師は一生懸命の仕事が患者さんのためになる。開業医になれば定年がなく、頭と身体が元気ならば高齢になっても仕事が続けられる。現に70歳代、80歳代の現役医師も多い。
〈真の「勝ち組」とは〉
一時「勝ち組」「負け組」という言葉が流行ったが、実は父は「勝ち組」だったのだと思うようになった。上須戒という貧しい農村にありながら、緑豊かな自然の中で毎日元気に働き、酒を好み、七人の子の成長を見届け、最期は寝たきりになることもなかった。80歳代後半まで「現役」を続け、家族に迷惑をかけることなく急逝した。まさしく「ピンピンコロリ」の典型だった。
(権力の頂点にあった秦の始皇帝は「不老不死」という究極の欲求を続けながら五十歳くらいまでしか生きられなかった。「不老不死」は非現実的だが「健康で長寿」は万人の願望であることは間違いない。)
つくづく思う。真の「勝ち組」とは、高収入でも高学歴でも高ステータスでもない。父のような「健康勝ち組」で人生を謳歌している人なのではないだろうか。
私が医師への転身を決意して再受験のための勉強を開始した頃、読んだ資格三冠王(弁護士・公認会計士・通訳)の黒川康正先生の本の中に「人生は、自らが脚本を書き自らが主役を演ずるドラマである」という言葉があり大変鼓舞されたものだ。
〈「今が最も幸福だ」と思う気持ち〉
人生主役の自分が「健康勝ち組」を目指すとともに心掛けなければならないのは、「今が最も幸福だ」と思う気持ちだろう。「あの頃が最も幸福だった」「若い頃が一番よかった」などという懐古趣味はやめよう。身体をすり寄せてきた可愛い子らは次第に離れていく、加齢による体力低下等老化現象が増えてくるなど、時間経過による変化を受容していかなければならない。そして常にアクティブに生きていこう。それには何か目標を設定して生活するのがよい。
例えば、ある種の資格・検定試験合格でもよい(巷には夥しいほどの検定試験がある)。ダイエットでもよい。幾つになっても「合格」の二文字は嬉しい。○○kg減で目標達成に近づくのも嬉しいものだ。何か趣味を極めるのも楽しいし、もちろん他人のためになるという高貴な目標をもつボランティア活動も素晴らしい。
〈「目標」を立てて勉強する〉
私には、本業の医療・医学の勉強のほか、これまでの英独仏語に加えた他の外国語とともに難しい漢字を覚えること、更には、大学受験が理系のため十分学習できなかった歴史や公務員試験受験の際必至に勉強した経済学に再度挑戦したいなど、数え切れないほどやりたい勉強=「目標」がある。こうして人生を楽しんでいきたい。
私が拙著を買ってくださった方からサインを依頼されると、サインのほかに、次の言葉を添えるようにしている。
This is the first day of the rest of your life.
「今日はあなたの残りの人生の最初の日である」という意味だ。何か有名な映画の中の台詞らしいが、私の好きな言葉だ。毎日、このような心掛けで生きていきたいと思っている。
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