リンク集: スーパーコピーブランド, グッチ服 スーパーコピー, フェンディコピー, シュプリーム ヴィトン コピー, ウブロコピー, ロレックスコピー, オメガ スーパーコピー, タグホイヤー スーパーコピー, シャネルJ12スーパーコピー, カルティエ スーパーコピー, オーデマピゲ スーパーコピー, パテックフィリップ スーパーコピー, ブレゲ スーパーコピー, カルティエ スーパーコピー, ,ロレックス時計スーパーコピー ,シャネル時計スーパーコピー ,ウブロ時計スーパーコピー ,カルティエ時計スーパーコピー ,パネライ時計スーパーコピー ,オメガ時計スーパーコピー ,ルイヴィトンバッグスーパーコピー ,グッチ財布スーパーコピー スーパーコピー時計 スーパーコピー

記事一覧

バンド「Chicago」の特異性

2010.04.19

ファイル 18-1.jpg

・・・・・・・・・・・河辺啓二の音楽論(3)

〈私たちのCBS〉

私が高校生だった1970年代前半、CBSソニーのCBSといえば、当時「ニューロック」と言われたChicagoとBlood,Sweat&TearsとSantanaの三大ロックバンドだった。ちょうど1960年代を席巻したBeatlesが解散し、「明日に架ける橋」で70年に頂点に立ったSimon&Garfunkelも解散した直後くらいの時期である。(ちなみに当時の私個人の趣味でのCBSは、CarpentersとBeatles(BeeGeesも含めて)とSimon&Garfunkelであった。)

高校の友達とBlood,Sweat&Tearsの「スピニングホイール Spinning Wheel」、Santanaの「ブラックマジックウーマン Black Magic Woman」などのヒット曲を聴いていた。

それらと並んで聞いたのがChicagoの「長い夜 25 or 6 to 4」だった。当時聞いた曲で記憶があるChicagoといえば、ほかに「クエスチョンズ67/68」くらいだろうか。特にアルバムを買うほどでなく、古レコード屋で「長い夜」と「流血の日」(←後者は記憶が定かでない)のシングル盤を買ったと思う。


〈Chicagoとの「再会」〉

以後40年近く、Chicagoを聴くことはほとんどなかった。1982年頃大ヒットした「素直になれなくて Hard to Say I‘m Sorry」でさえもぼんやりとした記憶しかない(当時超多忙な官僚だったため音楽を聴く余裕がなかったためかもしれない)。

途中唯一買ったシングルCDがある。1997年当時観ていたTVドラマ「シングルス」の主題歌「ムーンライト・セレナーデ」である。Chicagoのオリジナルではないが、見事に歌い、演奏している。あとは、ごくマレにカラオケで「長い夜」を歌ったくらいかなぁ。
それが今Chicagoにハマッている。きっかけは、2月に東京国際フォーラムで行われた「Chicago Japan Tour 2009」コンサートを観てからである。2009年9月来日の予定だったものが、主要メンバーのロバート・ラムの怪我のため延期されて今回実現したものである。

上記「ムーンライト・セレナーデ」で述べたとおり、彼らは実に歌も演奏もうまい。バンド結成当時のオリジナルメンバーは、ロバート・ラム(ピアノ、ボーカル)と金管楽器の3人の計4人しかいない。彼ら4人は60歳代半ばという高齢だが、衰えを感じさせないのだ。


〈Chicagoのユニークさ;他グループとの比較〉

Beatlesは、1962年~70年の活動の後、分解してしまった。ごく初期にピート・ベストの解雇など、メンバーチェンジがあったが、世にBeatlesとして出てからは、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの「固定メンツ」でとおし、最後は仲違いし、別れてしまった。

Rolling Stones は、Chicagoよりやや早い1960年代前半に誕生(Chicagoの結成は1967年)以来、やはり現在進行形のいわば「怪物」バンドだ。デビューして間もない頃、人気メンバーのブライアン・ジョーンズが急死(変死)している。以後、名実ともにトップのロックバンドとして(ミック・ジャガーのほぼ「ワンマンバンド」として)ヒット曲を連発した。40年以上解散もしないでいるが、「軽量」のメンバー脱退・加入は行われている。現行のオリジナルメンバーは、ボーカルのミックとギターのキース・リチャード、そしてドラムのチャーリー・ワッツの3人だ。なぜBeatlesは(グループとして)短命で Rolling Stones は長寿なのか。答えは簡単だ。ジョンとポールという両雄を抱えるBeatlesと違い、Stonesは、既述のとおりミック・ジャガーの「ワンマンバンド」だからだ。曲作りは、ミックとキースの共同作業と言われているが、ほぼ全部の曲のリードボーカルがミックなのだ。つまり、Stonesの人気の9割は、ミックの歌声・ステージパフォーマンスによるものと言っても過言ではないだろう。

Simon&Garfunkelも1960年代から70年まで活動し、やはり70年に二人の仲違いにより解散した。名曲作りの天才・サイモンと美声のガーファンクルがそれぞれの道を歩むことになったが、以後、ときおり再結成して来日も果たしている。

きょうだいグループその1・Carpentersは、ボーカルのカレンの死(拒食症)によって終了した。きょうだいグループその2・BeeGeesは、途中、ロビンの脱退・復帰を経て「Saturday Night Fever」の大ブレイクがあったが、2003年にモーリスの死亡(腸閉塞だったらしい)により、実質的に解散終了した形となった。


〈Chicagoのユニークさとは?;あたかも「新陳代謝」〉

以上、私の好きなグループについてばかり述べた。主要メンバーの仲違いか死亡が原因で解散しているもの以外、グループとして生き残っているのは、ミック・ワンマンバンドのStonesのみだ。

Chicagoがユニークなのは、主要メンバーの死亡(リードギターとボーカル担当のテリー・キャス。なんと拳銃の暴発で弱冠31歳で亡くなった!)もあったが、メンバーの入れ替わりが多く、何度も「部分的若返り」が行われていることだ。ここまではStonesにも当てはまりそうだが、Stonesと決定的に違うことはワンマンバンドでないことだ。曲によってリードボーカルを取るメンバーが3人~4人もいるし、バックコーラスとなると、ドラム以外全員が歌える(しかもうまい)。死亡又は脱退したメンバーには「後釜」がオーディション等で選ばれる。「後釜」は「前任者の業務」を原則としてそのまま引き継ぐ。担当する楽器はもちろんだが、「前任者」がリードボーカルの曲は、自分がリードボーカルで歌う。

その最たる例が、ベースのジェイソン・シェフだ。キーボード担当のロバート・ラムが曲作り・歌唱ともにリードしていた初期(ただし、「長い夜」「クエスチョンズ67/68」のようにロバート作曲でもキーが高い曲は、ベースのピーター・セテラがリードボーカルを担当していた)を経て、「愛ある別れ If You Leave Me Now(1976年)」「素直になれなくて Hard to Say I‘m Sorry(1982年)」といった全米ナンバーワンヒットを作曲し歌った、ベースのピーター・セテラが「Voice of Chicago」と称される頃、ピーターは脱退する(1985年)。その「後釜」がジェイソン・シェフだ。ピーター脱退後、コンサートで看板曲「長い夜」「素直になれなくて」といえば、ジェイソンが歌っている。甲高い声はピーターを彷彿させる。このように「後任者」はどうも声質の似たミュージシャンが選ばれるようだ。更におもしろいのは、Chicago脱退後ソロ活動を続けるピーターは、自らのコンサートで、これらChicago時代の持ち歌を披露するという。来日することもあるらしいので、今度機会があったら、ピーターのコンサートに行ってみたいと思っている。

〔ところで、ベース演奏者が曲を作り甲高い声で歌うというと、Beatlesのポール・マッカートニーが連想される。ポール、ピーター、ジェイソンに共通して言えるのは、低い音のベース演奏者が、キーの高い声でリードボーカルを務めるということだ。〕


〈Chicagoの音楽の継続性〉

このように、Chicagoは、いなくなったメンバーの担当した曲を「引き継いで」見事に歌い上げてくれるのだ。オリジナルメンバーの4人が、

●ロバート・ラム(ボーカルとピアノ担当。現在65歳。彼がリードボーカルで有名な曲といえば「サタデイ・イン・ザ・パーク Saturday in the Park」)

●ジェイムス・パンコウ(トロンボーン担当。現在62歳。口を使う楽器担当ゆえか、リードボーカルの曲はないが、実は最も多くの曲を書いている。2月の日本でのコンサートでは、日本語で挨拶するというサービスを披露してくれた。)

●リー・ロックネイン(トランペット担当。現在63歳。コンサートで、トランペットという楽器ゆえか、真顔で演奏する様子が印象的。今回の来日コンサートではすっかり白髪姿だった。)

●ウォルター・パラゼイダー(サックスとフルート担当。現在65歳。バンド創設の中心人物だったらしい。残念ながら、どういう理由か、今回の来日コンサートには代理が来ていたようだ。)
と、グループの平均年齢を上げているのに対し、ベースとボーカルのジェイソン・シェフは47歳、リードギターのキース・ハラウンドは45歳と比較的若手である。40歳代から60歳代の20歳もの年の差バンドというのも、おもしろい。

もう1人、主要メンバーの、いや主要メンバーだったビル・チャンプリン(チャップリンでない)のことも触れておきたい。彼は、1981年、途中加入したメンバーだが、作曲はしないものの、キーボードやギターを担当しながらも、その独特のshoutするガラガラ声が非常に印象的なシンガーである。彼のボーカル曲「ルック アウェイ Look Away」は、1988年の全米年間シングル・チャートのナンバーワンヒットになったほどだ。しかし、ちょうど、2009年9月の来日コンサート直前に、28年間も在籍したChicagoを脱退し、もとのソロ活動に戻ってしまった。理由は不明だ。来日の延期はロバートの怪我とされるが、こちらのほうが主因ではないかと、私は勘ぐっている(「後任」選びで時間がかかった?)。果たして、本年2月の来日コンサートでは、彼の「後任」がやはりダミ声で歌っていたようだ。


〈Chicagoの音楽といえばブラス〉

確かにChicagoの特徴は、BeatlesやStonesのような、ボーカル・ギター・ベース・ドラムというバンド基本形に加え、トランペット・トロンボーン・サックスという金管楽器(ブラスセクション)がおおむね常に演奏に加わっていることだ。

Beatlesにも「Got to Get into my Life」のようにブラスを前面に出した曲もいくつかはある(特に中期)が、外部ミュージシャンに参加してもらったものだ。ちなみに「Got to Get into my Life 」は、Beatles回顧のアルバム作成企画の際に、Chicagoはこの曲を演奏しないかと打診されるも断ったらしい。そして代わりに演奏したのが、Earth,Wind&Fireというわけだ。当然の如く、Earthの「Got to Get into my Life 」はヒットし、いまや彼らの代表曲の1つになっている。

Stonesも、Beatlesにインスパイアされたのか、一時ブラスを多用した時期(1960年代後期。アルバム「Their Satanic Majesties Request」など)があった。それとは別に、印象的なStonesのブラスサウンドといえば、ローリングスートン・レーベルで初めてリリースしたアルバム「Sticky Fingers」からのシングルヒット曲「ブラウンシュガー Brown Sugar」の間奏で登場するサックスの荒々しいサウンドだ。もちろん外部からの「非常勤メンバー」によるものだが、来日コンサートの際にも必ず披露してくれる。

そういう意味(ブラス奏者が「常勤メンバー」)で、Chicagoに似るのが、Blood,Sweat.&Tearsであり、Earth,Wind&Fireである。EarthとChicagoは「仲良し」で、アメリカでは、たびたび一緒にコンサートを行っている。どちらも好きな私は、是非観たいコンサートなのだが、日本では実現困難なようだ。DVDで両者が一緒にしているものがあり、それを観て、自分を満足させている。


〈飽きさせないChicagoの音楽〉

Chicagoファンなら誰しも知っていることだが、初期のブラス色満載の「長い夜 25 or 6 to 4」等のヒット曲から、「愛ある別れ If You Leave Me Now」「素直になれなくて Hard to Say I‘m Sorry」といった大ヒット・バラードへの転換により、ピアノやギターのサウンドが前面に出てブラスは後退した印象だ。

Beatlesは、たった7年間で、シンプルなエレキ・ロックバンド・サウンドから始まり、古典楽器サウンド(「Yesterday」など)、ブラスサウンド(前述)、インド楽器サウンド(「Norwegian Wood」など)、ピアノサウンド(「Let it be」など)と変化・進化してファンの耳を楽しませてくれた。やはり、何年も同じようなサウンドでは、ファンは飽きるものだ。

Chicagoも、数十年かけてサウンドを変化させ、われわれファンを飽きさせないでいてくれる。

加山雄三は70歳代の星

2009.11.29

ファイル 8-1.jpg
ファイル 8-2.jpg

・・・・・・・河辺啓二の音楽論(2)

11月23日、東京・中野サンプラザの加山雄三withザ・ワイルドワンズコンサートツアー「湘南 海 物語 オヤジ達の伝説」に行って来た。一人で観る(聞く)のもナンなので、いつも一緒に外出する十歳年下の妻をやや強引に誘って行った。加山雄三が72歳と聞いて「親と同世代じゃ、ほとんど曲知らない」と言うので、コンサート1週間前に「加山雄三グレイテスト・ヒッツ」というCDを買い求め「予習」させておいた(コンサートに来て知らない曲ばかりだとつまらないものですよねぇ)。
観客は、予想どおり、平均年齢60歳代後半といったところか。中には杖をついてやっと歩行されるご老人もいた。妻がyoungestに近いほどであった(笑)。


〈私が初めて加山雄三を聞いた頃〉

加山雄三が映画デビューしたのが1960年の23歳時、歌手デビューしたのが翌61年らしい。私の記憶にあるのは、小学生だった1965年~66年の大ヒット曲「君といつまでも」だ。当時、レコード盤ならぬソノシート盤(赤色でペラペラの薄さのもの。若い人はわからないだろうな)で聞いていた。その頃、漫画雑誌の通信販売で一枚200円くらいでソノシート盤が購入でき、長兄の安物のポータブルレコードプレイヤーで聞いたものだ。カップリング曲は「夜空の星」だった。


〈幻のレコード大賞「君といつまでも」〉

1965年12月に映画『エレキの若大将』主題歌として発売された「君といつまでも」は350万枚の大ヒットになり、翌66年の第8回日本レコード大賞の大本命とされていたが、結局大賞は同曲に比べ売り上げ面で劣る橋幸夫の「霧氷」が受賞することとなり、「君といつまでも」は特別賞に留まった。このことについて、長兄から「加山雄三は、本職が歌手でなく俳優だから」落選したらしいと聞いたことを覚えている。


〈私にとって2度目の加山雄三ブーム〉

 特に加山雄三の映画も見ることもなく、中学、高校と進み、再度、加山雄三の曲を口ずさむようになったのは、大学一年生の二十歳ころだった。その頃、ベスト盤とともに、新作「海 その愛」のレコードを買い、何度も聞いた。楽譜本も買って、ヘタなりにギター弾き語りしたものだ。当時、社会でも加山雄三がちょっとしたブームだった。

 多くの方々はご存知だろうが、彼は、あのユーミンより、桑田佳祐より、ずっと前の時期から自ら作曲して自ら演奏して歌う、日本の「シンガーソングライター」の草分け的存在なのである。作曲者としての名前は「弾厚作」。


〈中年になって聞く(歌う)加山雄三〉

1989年、結婚し、医学部生として新生活に入った私だが、その頃大好きだったTV番組が日本テレビの「知ってるつもり?!」だった。非常に優れた番組で、歴史等いろんなジャンルで有名な人物を毎回ひとり採り上げていた。基本構成は、対象となる人物の再現VTRを見ながら出演者がコメントするというものであった。採り上げられる人物については、一般的に認知されている事柄以外の意外な一面にスポットを当てようとした構成を取っており、従来の既成の観点とはひと味違った観点で楽しめた。司会は関口宏で、加山雄三は、レギュラーパネラーのリーダー的な役割を果たしていた。杉原千畝など、番組放送当時、一般にはあまり知られていなかった人物の功績や活躍を取り上げることもあり、視聴者の中には、番組を観たことでそれらの人物の名前を知ったという者も多いという(恥ずかしながら、杉原千畝については、私もその一人)。

加山雄三の曲は歌いやすい。ご本人が歌いやすいように、キーを高くしていないし、音域も広くしていないからだ。だから、私は、彼のヒット曲をほとんどカラオケで歌える。私がカラオケで歌う邦楽といえば、加山雄三とタイガース等グループサウンズとアリスくらいかなぁ。


〈加山雄三は中年・老年の星だ!〉

 さて、コンサートに話を戻そう。72歳という御年なのに、声量に衰えは全くなかった。考えるに、サイモン&ガーファンクルが68歳、ポール・マッカトニー67歳、ミック・ジャガー66歳より、何歳も上なのだ。やはり、加山雄三はスーパースターだ。70歳過ぎても新曲をリリースしている。

コンサートの中では、「弟子」のワイルドワンズの曲は「思い出の渚」しか知らないとさかんに揶揄していたが、彼一流の可愛がっている弟分へのジョークだろう。
コンサートでは、以下のとおり、多くのヒット曲を披露してくれた。

加山雄三は、
「海 その愛」、「二人だけの海」、「ある日渚に」、「光進丸」、「夜空の星」、「蒼い星くず」、「夕陽は赤く」、「夜空を仰いで」、「お嫁においで」、「想い出の渚」、「君といつまでも」、「ぼくの妹に」、「サライ」、「旅人よ」、「恋は紅いバラ」など。
(私のよく知る曲で歌われなかったのは「霧雨の舗道」「白い砂の少女」「美しいヴィーナス」くらいかな)

加瀬邦彦とザ・ワイルドワンズは、
「白い水平線」、「愛するアニタ」、「青空のある限り」、「夕陽と共に」「思い出の渚」など。

更に、加山雄三が、次の洋楽を歌ったのは意外だったが、もともとプレスリーやビートルズの影響を受け、英語も堪能となれば、当然かと・・・。
SOMETHING(もちろん、ビートルズの曲)
AMAZING GRACE
MY WAY

ユーミンはやはりスゴイ!

2009.10.26

ファイル 6-1.jpg
ファイル 6-2.jpg

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・河辺啓二の音楽論(1)

10月3日、東京・国際フォーラムの松任谷由実「TRANSIT2009」最終公演に行って来た。今年4月から始まった同コンサートツアーのまさに最終日なのだが、なんと私は強運なのでしょう、その「千秋楽」に最前列のしかもド真ん中の席であったのです。


〈私が初めてユーミンを聞いた頃〉

 いったいいつから私はユーミンを聞くようになったのだろう。私にとってユーミンは「荒井由実」だった。四国の高校を卒業し、東大に落ち、浪人していたときだろうか、それとも、一浪の後東大に入って間もない頃だろうか、当時中央大学の学生だった実兄の持っていた「ひこうき雲」「ミスリム」「コバルトアワー」の3枚のLPを何回も聞いたものだ。もちろん、その頃CDなんてあるはずがなく、レコード盤に針を落として、あの「シャー」という音とともにユーミンの音楽を楽しんだ。

 麻雀にうつつを抜かしていた大学一年生の頃、シングル「あの日にかえりたい」が大ヒット、続く「翳りゆく部屋」もヒット。大学の漫画倶楽部の汚い部室で下手なギターを弾きながら「翳りゆく部屋」、そしてバンバンに提供されヒットした「いちご白書をもう一度」を歌ったものだ。

 1970年代の若い大学生の愛好する日本の音楽といえば、小椋桂と荒井由実である。70年代前半から売れていたこの2人に遅れること数年、70年代後半からブレイクしてきたのがサザンオールスターズであった。思うに、自ら曲を作り歌い演奏するアーティストで、30年以上も日本の音楽シーンのトップを維持しているのは、ユーミンとサザン(桑田佳祐)が双璧であろう。カラオケの歌本に掲載されている彼らの曲の多さに驚嘆するのは私だけではないだろう。ちなみに、有線放送USENのチャンネルリストには膨大なチャンネル番号が載っているが、個人アーティストだけで1つのチャンネルを占めるのは日本人で4組だけ(美空ひばり、石原裕次郎、サザンオールスターズ、松任谷由実)、外国人で6組だけ(エルビスプレスリー、ビートルズ、カーペンターズ、エリッククラプトン、ボブデュラン、ローリングストーンズ)である。


〈ユーミンはマイケルジャクソン並みのエンターテイナーか〉

 おじさん医学生だった頃から、好きな外国人アーティストが来日した際、東京ドーム、日本武道館、東京国際フォーラムなどで行われるコンサートに行くようになった。ポールマッカートニー、ローリングストーンズ、サイモン&ガーファンクル、(ビージーズの)ロビンギブ、アース・ウィンド&ファイア、ボブディラン、エルトンジョン&ビリージョイルといったところか。

そのかわり、邦人アーティストのコンサートは、ほとんど行ったことがない。数年前に地元群馬県の市民公会堂の堀内孝雄のそれを見たくらいだ。このとき、アリスが好きな私は「なつかしの」アリスソングを期待したのだが、それはわずか数曲で、ほとんどソロになっての演歌調の曲であった。ちょっと残念だった。

ファンが聞きたい昔のヒット曲はほとんど「封印」して、なるべく新しい曲を披露するという姿勢は「現在進行形のアーティスト、COMPOSER」としてのプライドなのだろう。今回のユーミンのコンサートでも、私のよく知る「荒井由実」の曲は少なく、新作アルバム「そしてもう一度夢見るだろう」の曲をはじめ1980年代以降の曲を多く披露した。通常、知らない曲が多いコンサートは退屈になるものだが、全くそうではなかった。

一つには、新しい曲なのに、昔と変わらないユーミンの作風であるため、初めて聴いたようには思えない親しみが沸いてくる曲が多い。作風が変わらないといっても、陳腐さは微塵も感じられないのだ。加齢現象で今時の歌はなかなか覚えられない私でさえも、不思議と口ずさめてしまうのである。

もう一つは、ユーミンが見せる(魅せる)ショーであるということだ。個性的なメンバー揃いのバックバンド(特にパーカッションが印象的)、バックコーラスを従え、何度も衣装替えし、踊りあり、フライ(ピアノ線で吊っていた)あり、マジック(火が燃えたり、姿が消えたり)あり、・・・と全く退屈さを感じさせない。


〈他のアーティストたちのコンサートとの比較〉

このユーミンのコンサートの直近に観たコンサートは、7月11日、東京ドームのサイモン&ガーファンクルだが、彼らはほとんど「定位置」で歌うばかりであった。

ポールマッカートニーも、おおむね「定位置」だったが、ローリングストーンズのミックジャガーは、60歳代でありながらステージの端から端まで駆けて歌うなど、サービス精神は旺盛だった。

加齢による歌声の劣化は、いたしかたないと思う。55歳のユーミンの歌声は劣化していなかった。かつて東京ドームで観たポールマッカートニーも、また、ミックジャガーも往年の歌声であった。ちょっと淋しく感じたのは、数年前東京国際フォーラムで観たロビンギブと今回のガーファンクルだ。ファルセットで「Staying Alive」「Night Fever」など大ヒット連発していたビージーズだが、ロビンギブは、加齢のためかファルセットなしで「地声」で歌っていた。ちょっと盛り上がりに欠けた。

今回のサイモン&ガーファンクルは、13年前来日の際より多く歌ってくれた(前回はガーファンクルの体調不良のため曲数が少なかった)。ただ、68歳という年齢で、20歳代に発表した「明日に架ける橋」「スカボローフェア」の美しい高音を求めるのは酷であろう。サイモンはもともと美声ではないで、若い頃と大きな変化がないように聞こえるが、ガーファンクルの声は、どうしても往年の美声より「かすれた」声になっていたことは明らかであった。


〈ユーミンコンサートの曲は・・・〉

話が逸れた。最後にコンサートで披露された曲目を紹介する。ともかく、その歌声、動き、容貌の若々しさに脱帽。
航海日誌・・・・・・・・・・・・・・・・COBALT HOUR(1975)
ベルベット・イースター・・・・・・・・・ひこうき雲(1973)
ピカデリー・サーカス・・・・・・・・・・そしてもう一度夢見るだろう(2009)
 時のないホテル・・・・・・・・・・・・・時のないホテル(1980)
Bueno Adios・・・・・・・・・・・・・・そしてもう一度夢見るだろう(2009)
まずはどこへ行こう・・・・・・・・・・・そしてもう一度夢見るだろう(2009)
黄色いロールスロイス・・・・・・・・・・そしてもう一度夢見るだろう(2009)
幸せになるために・・・・・・・・・・・・acacia(アケイシャ)(2001)
やさしさに包まれたなら・・・・・・・・・MISSLIM(1974)
ハートの落書き・・・・・・・・・・・・・そしてもう一度夢見るだろう(2009)
夜空でつながっている・・・・・・・・・・そしてもう一度夢見るだろう(2009)
自由への翼・・・・・・・・・・・・・・・U-miz(1993)
青いエアメイル・・・・・・・・・・・・・ OLIVE(1979)
ジャコビニ彗星の日・・・・・・・・・・・悲しいほどお天気(1979)
Flying Messenger・・・・・・・・・・・・そしてもう一度夢見るだろう(2009)
守ってあげたい・・・・・・・・・・・・・昨晩お会いしましょう(1981)
Forgiveness・・・・・・・・・・・・・・A GIRL IN SUMMER(2006)
14番目の月・・・・・・・・・・・・・・THE 14th MOON(1976)
水の影・・・・・・・・・・・・・・・・・時のないホテル(1980)

ダンデライオン~遅咲きのたんぽぽ・・・・VOYAGER(1983)
埠頭を渡る風・・・・・・・・・・・・・・流線形'80(1978)
DESTINY・・・・・・・・・・・・・・・悲しいほどお天気(1979)
二人のパイレーツ・・・・・・・・・・・・U-miz(1993)
卒業写真・・・・・・・・・・・・・・・・COBALT HOUR(1975)

ページ移動