・・・・・・・・・・・河辺啓二の映画論(3)
〈「八日目の蟬」〉
先日、たまたま出かけ先で時間があったので、「八日目の蟬」という映画を観た。角田光代の小説が原作で、「母性」をテーマにしたサスペンス作品とされている。子供を誘拐した女・希和子の5年半の逃亡劇と、事件後、大人になった子供・恵理菜の葛藤を描くものである。
映画は、それはそれでよかった。私の中での邦画ランキングでは、「ノルウェーの森」より上、「母べえ」より下って感じかなぁ。
ところが、その映画を観た直後に、同じ作品がNHKドラマで放映された。昨年放映されたものの再放送だった。昨年TV放映があったとは知らなかった。45分ものの6回分なので、実質映画の倍以上の長さのせいか、その分見応えがあったと思う(当然主要な登場人物も多くなる)。
〈映画とTVの違い〉
映画では、成人となった恵理菜(井上真央)が主人公として描かれていたようだ。ところが、テレビでは希和子(檀れい)が主人公だった。(ともに最も売れている女優を主役としたようだ。)
例えば、映画では、恵理菜と恋人・岸田(井上真央の恋人役が劇団ひとりとは・・・)との交際が多く描写されていたのに、過去の回想シーンがメインのテレビでは、成人した恵理菜の恋人役(岡田浩暉:太田市新田木崎町出身です。)は、ほんの少ししか登場していなかった。
私としては、誘拐犯であり「母」である希和子が主人公という設定のほうが引き込まれた感がある。
〈不自然な点〉
ノンフィクションにどっぷり浸かった人生を歩んできた私は、どうしても、こういうドキュメンタリーでない作品を観ると、不自然なところが気になってしまう。
原作を読んでないから、原作でどのように書かれているか知らないが、最も不自然感を抱いたのは、希和子が赤ん坊の恵理菜を誘拐する場面だ。抱っこしているうち(自分が子供をつくれない身体になったため)その可愛さのあまりそのまま自分の子にしてしまおうという衝動に駆られた気持ちは理解できる。私が不自然だと思うのは、そんな生後数か月の赤ちゃんを自宅に置いたまま(ほかに家人もなく)、しかも、家の鍵をせずに両親そろって外出してしまうことだ。このことは、映画でもテレビでも同様のシチュエーションで描かれていた。施錠もせず、赤ん坊をベッドにひとり寝かしたまま出かける親っているのだろうか・・・。
あとは、恵理菜の赤ん坊・幼女時代と大学生時代という、どうしても15年という年月の差があるため、もともとの成人役の登場人物がその分「老ける」必要があるのだが、例えば映画で写真館の主人が15年後全く変わっていなかったことがやや不自然。まぁ、60歳代も70歳代もあまり変わらないということか。ただ、15年前に1度だけ撮影に来たお客を、しかも15年経って成人して顔が変わっているにもかかわらずこの主人が覚えているという設定はムリがある。
更に、付け加えると、上述のとおり、人気女優・井上真央の恋人役が劇団ひとりというのはいかがなものか。もっと二枚目が演じると思われていたのでは・・・。(それにしても井上真央は大女優になりそうだ。今、朝のNHK連ドラ「おひさま」で明るい「太陽の」陽子を演じているが、この映画では(数奇な半生を経ているだけに)暗い人物・恵理菜を見事に演じていた。)
〈顛末がいまひとつ・・・〉
映画では、結局成人した恵理菜は、希和子と再会していない。というか、警察に逮捕された後の希和子は描かれていない(時間の都合上か)。テレビでは、恵理菜が小豆島行きフェリーの岡山港で再会したかのように見えたが、やや尻切れトンボの感は否めない。原作がどうかわからないが、どちらも、その後の恵理菜と希和子の接触は極めて曖昧とされており、私たち観る者の想像に任されているかのようである。