気分が悪くなる名著「禁断の中国史」
・・・・・・・・・・・・・河辺啓二の勉強論(20)
<中国古代史は面白い>
横山光輝の「殷周伝説」「史記」「項羽と劉邦」「三国志」といった中国古代史の漫画にハマったのはいつ頃だっただろうか。特に「項羽と劉邦」が好きでDVDも全巻買って観たし、司馬遼太郎の文庫本も読んだ(「三国志」DVDも買って観た)。
最近では、2020年9月~2021年6月に毎週日曜21時からNHKBSプレミアムで放映された「コウラン伝 始皇帝の母」がよかった。日曜の夜が楽しみだった。
このように、私は中国古代の物語が好きである。それだけに、この「禁断の中国史」を書店で見掛けたとき、すぐに購入したものだ。「刑罰」「宦官」「纏足」など興味のある章立てになっており、あまりに面白くて遅読の私にしてはわりと短時間で読了した。帯に「全篇、あまりに衝撃的な史実満載」とあるが、そのとおりであった。
<百田尚樹の作品は面白い>
百田尚樹といえば、「永遠の0」の映画はとてもよかったなぁ。「海賊とよばれた男」の映画も観た。いずれも本は読んでいない。百田尚樹の著書で読んだものとしては、3年前に「今こそ、韓国に謝ろうーそして、「さらば」と言おう―」くらいかなぁ。
確かに彼の主張するように、我々日本人は、中国及び中国文化に誤った尊敬をしていたのかもしれない。実は、トンデモナイ文化・習慣・考え方を有するトンデモナイ民族・国家であることが、この本を読むとよくわかる。昔のことだけでなく、何千年も経て今に続くひどい国だなぁと感じざるを得ない。
〈第1章「中国四千年全史あるいは虐殺全史」〉
この章では、夏王朝あるいは殷王朝から始まる「中国史」は「残虐史」であることを時系列的に紹介している。高校で学んだ世界史の中の中国史の復習でもあるが、世界史の教科書には書かれてはいない残虐な殺しが無数にあったことが示されている。
例えば、漢の高祖・劉邦の妻=呂雉(りょち)が、劉邦が亡くなった後、劉邦が寵愛した側室の戚夫人を言うのも憚られる残虐な方法(興味のある方は調べてください)で殺したことも紹介されている。その話は、私も横山光輝の漫画で読んで、あまりにも残忍、強烈なためによく覚えている内容である。
この章の最後部で「中華民国が統一国家となっていたなら、中国も遅ればせながら民主国家となった可能性もあります」と述べられている。う~ん、確かに日本が敗れた後の国共内戦で国民党軍が共産党軍に勝っていたら、今日、ロシアとともに、世界の平和と安定に脅威を与えているような国にはなっていないだろうなぁと感じた次第である。
〈第2章「刑罰」〉
確かに古代中国の残忍な処刑方法は、横山光輝の漫画でよく見たものだ。印象に
残るものは、一人の罪人の首、両手、両足に縄をかけ、それを5台の車というか5頭の馬に引っ張らせて身体をバラバラにさせる方法がある。「車裂(くるまざ)き」とか「五馬分屍(ごばぶんし)」というらしい。ただ、この処刑法は、かつてヨーロッパや日本でも行われたらしい。
ここでも紹介されている「炮烙(ほうらく)」の刑も強烈だ。殷王朝最後の皇帝で暴君の名で知られる紂王(ちゅうおう)は「酒池肉林」でも有名だが、妾の妲己(だっき)を笑わせようと油を塗った銅の筒を下から火で熱した上を裸足の罪人を渡らせるとういう残虐極まりない刑罰を繰り返し楽しんだという。もちろん、この罪人たちは苦しんだ挙句に火中に落下して亡くなっているのだ。しかも、この「炮烙(ほうらく)」の刑が後の王朝にも引き継がれているという。
ほかにも代表的残虐処刑法として「凌遅刑(りょうちけい)」がある。生きている人間の肉を小刀で切り取っていくもので、通常千回くらい切り取って罪人を死に至らしめるという。ほかにも、様々な処刑法が述べられていて、中国人の精神構造が我々日本人と大きく異なることを思い知らされるものである。
やはり日本にはない非常に重要な刑としては、男性器を切り取る「宮刑(きゅうけい)」にも言及あり。あの「史記」の作者、司馬遷が最も有名だが、宮刑を受けた宦官(かんがん)については第4章で詳述されている。
<第3章「食人」>
何と言ってもこの章が最も衝撃的である。作者の百田氏も「心臓の弱い方、繊細な方は、この章は飛ばして次の章へ進んでください。」とまで繰り返し述べているほどである。なんと、中国では古来「人間を食べる習慣」があったという!
「中国人は、海にいるものなら潜水艦以外は何でも食べる、空にいるものなら飛行機以外は何でも食べる」という言葉は聞いたことがある。中国人はどんなものでも食材として料理して食べる、言い換えれば、どんなものでも巧みに料理することができるという、どちらかというと中国人を貶(けな)すというより、その食への追及心を大袈裟に表現したものだろう。
確かに、日本でも、いやヨーロッパ等でも、大飢饉の際には、自らの命を長らえるために亡くなった人の肉を食べることはあったことは否めない。太平洋戦争時でも、食糧枯渇した南方の日本兵が餓死した同僚の肉を食べたことは事実らしい。これらの場合、人道的に非難されるものではないと思う。
しかし、中国人の「食人」は、こういったレベルではない。なんと死んだ人間だけではなく、生きている人間を殺して食べる「食人」なのだ!中国では基本的に飢えや病気で死んだ人の肉は不衛生と考え、生きた人間を殺して食べていたらしい。『資治通鑑(しじつがん)』という高校の世界史にも出てくるれっきとした歴史書などに「飢饉の際に生きた子供を取り換えて食う」という記述が多数あるという。あるいは、子供が多い家庭ほど親が生き延びるという話もあるとか。
『三国志演義』の中にもある。劉備玄徳が呂布に敗れて飢えてある漁師の家に辿り着き、肉料理をご馳走になるも、その肉は自分の妻を殺して料理したものであることが翌日わかる。『三国志』は私も読んだり観たりしたものだが、そんな話はなかった。日本人には受け入れられないと、作者や製作者がカットしたようだ。
中国が唐の時代、遣唐使たちが多くの中国文化を日本に持ち帰ってきたが、前項の「凌遅刑」もこの「食人文化」も持ち帰らなかった。日本人としてのメンタリティが保たれていたのに違いない。894年(昔「ハクシ」と覚えましたなぁ)に菅原道真が遣唐使廃止を進言した理由の一つに「唐の食人文化」に嫌気がさしたというまことしやかな説があるらしい。
<第4章「宦官」>
「宦官」という言葉は、高校2年の世界史の授業で初めて知ったと思う。世界史の先生が中国史を教える際に「宦官」に言及したとき、同級生の男子でニヤニヤしていた奴がいた記憶がある。純朴な少年の私は、あまり気に留めなった。その先生も、「宦官とは」という話はしてくれなかったような・・・。教科書にも説明がなかったような気がする。
「宦官」に関しては、以前から2つほど疑問に思っていたことがあった。
①なぜ中国で3000年以上も「宦官」が存在した(朝鮮半島でも同様)のに、日本では全くなかったのか
②昔の低い医療レベル下でこんな「手術」をしたら、殆どの人が感染症で亡くなったのではないか
これら私の疑問に本書は答えてくれた。
①について・・・中国やヨーロッパを含むユーラシア大陸では、異民族を征服して、奴隷とした男性を去勢したことがきっかけで宦官が生まれた。去勢すれば、その男性は子供を作ることができなくなる。よって、敵対する異民族の子孫の増加を防ぐこととなる。つまり、日本で宦官の文化がないのは、島国で古代から他民族との戦争が殆どなかったためらしい。やはり「陸続き」であるかどうかは、極めて重要な歴史形成の要因なのだ。
②について・・・この「手術」については、横山光輝の「史記」で司馬遷が「術後経過」の描写がされていた(術後3日目に尿が噴水のように出るなど)ので概ねのイメージはあった。百田氏によると、「漢時代の成功率は高くはなく、死亡率は30%くらいだったと言われていますが、その後は技術の向上によって徐々に死亡率は下がり、清朝末期には3%くらいになった」らしい。う~ん、「死亡率30%の手術」なんて今では考えられない。それも、「命を救うための手術」ならまだしも、宦官になるための手術で・・・。
宦官は、横山光輝の「史記」「項羽と劉邦」にも登場する。後者の「項羽と劉邦」では、宦官史上最高権力を握った、秦の趙高(ちょうこう)が重要な登場人物となっている。「馬鹿」の語源などを知るに、とんでもない男(?)に中国史が形成されてしまったのだと感じるものである。「史記」に登場するニセ宦官・ロウアイ(漢字が見つからない)が、(後の始皇帝の母の)趙姫(ちょうき)の性的欲求を満たす愛人となる話も、百田氏の言うとおり「エログロの極致」だ(さすがにNHK「コウラン伝 始皇帝の母」ではこのへんの話はカットであった)。百田氏の「中国という国では昔から小説は発達しませんでしたが、その理由の一つは、実際の出来事が凄まじすぎて、作り物の物語が霞んでしまうからではないでしょうか。」には、思わず頷いてしまった。
<第5章「科挙」>
「科挙」が難関であるということは以前からよく聞いていたが、こんなにも難しいものだということを本章を読んであらためて知った次第である。「あまたある筆記試験の中でも科挙は世界一の難関試験」だということだ。
私が若き工学部生時代、「高級官僚」を目指して「国家公務員試験上級職甲種〔経済職〕」の受験勉強を始めた頃、当該キャリア採用試験は、前身は明治時代の「高等文官試験(略して高文)」だと聞かされていた。更にそのモデルがこの中国の科挙だったような話を聞いて信じていたものだ。
どんなに貧しい平民であっても、科挙という超難関試験に合格さえすれば出世できるという仕組みは、明治維新より前の日本でなかったはずで、その点では昔の日本よりすぐれていたのかもしれない。しかし、試験科目が良くなかった。ただ一つ、中国古典の「四書五経」であった。数学や科学が全く登場していない。江戸時代から数学を勉強し、明治維新後西洋の科学文明をあっという間に吸収した日本人に比して、中国人の学問は「四書五経」オンリーであったのだ。百田氏の「十九世紀後半から二十世紀にかけて、中国が欧米列強に領土を蚕食され、半植民地となった大きな理由の一つは「科挙」にあったと私は見ています。」は言い得て妙である。
<第6章「纏足」>
「纏足(てんそく)」という言葉は、中学の頃だったか、国語の授業で、パールバックの「大地」を勉強した際に、昔の中国には「纏足」という風習があったんだよと教わった記憶が残っている。当時は、「ふ~ん、変な風習だなぁ」と異国のことに大した関心も持たずにいたものだ。
足が小さいことが美女の条件という伝統が千年以上も続くという、奇妙極まりない、さすが中国ですな。医学的に見ても身体の成長、健康によいわけがない。世界で最も女性差別の激しい中国ならではである。纏足の風習がほぼなくなるのがやっと第二次世界大戦後であり、文化大革命(1966~1976)でやっと完全消滅したらしい。え~、まだ「最近」じゃん。
<第7章「策略、謀略、騙しのテクニック」>
中国では「騙される方がバカだ」という考え方が主流らしい。たしかに、古くは「南京大虐殺」、最近では「尖閣諸島」の例からわかるように、外交で日本は中国にいいように手玉に取られている。
この章でも、かつて読んだ横山光輝の漫画で強く印象に残ったシーンが登場している。漢帝国の創始者である劉邦の、まだ天下を取る前の話である。
ライバル項羽に敗れた劉邦は、幼い息子と娘とともに馬車で逃げていた。馬が疲れて走りが遅くなると、馬車を軽くするため、劉邦は、なんと息子と娘を馬車から放り投げたのだ。しかし、馬車を操っていた、劉邦の部下・夏侯嬰(かこうえい)が馬車を止めて二人の子供を連れ戻す。このことが何回も繰り返されたという。つまり、(日本では人気の高い)劉邦は、天下取り後、猜疑心の虜になって、腹心たちを次々に処刑したが、天下取る前から、このように我が子を放り出すような非情さ、残虐さがあったということである。というか、このような冷淡、非情さがあったからこそ、策略・謀略の渦巻く中国大陸で天下を取れたと言えるのだろう。
<第8章「中国共産党の暗黒史」>
数千年に及ぶ王朝支配が終わって、(中華民国、)中華人民共和国になって民主的国家に変わったかというと、そうではなさそうだ。清の時代、当時の全人口の3%しかいない女真族が中国全土を支配した。元の時代も、数パーセントのモンゴル人が中国全土を支配した。
今の「中国共産党」も、もともと全国民の3%もいない「少数民族」だったのが、残虐極まりない手法で中国全土を手中に収め、現在も、一握りの共産党幹部が十四億人を支配しているということのようだ。
そもそも「中国共産党」は当時のソ連が作ったものらしい。通常は国境を接した国同士は国境問題等で仲違いするものだが、困ったことに、「ウクライナ戦争」戦犯・狂気のプーチンと「中国共産党」習近平が、最近の中露首脳会談でも蜜月関係の維持姿勢を見せているように感じられる。
<本書こそベストセラーに!>
うすうす中国はトンデモナイ国だとは感じていたが、本書を読み、確かに「世界の中で日本人ほど中国を誤解している民族はいない」というのは本当だと感じてしまった。百田氏の言うとおり、日本人は、「三国志」や「史記」よりも『資治通鑑(しじつがん)』を読むべきなのであろう。その前に、わかりやすく書いてくれた本名著の「禁断の中国史」を多くの日本人に読んでもらいたい。