河辺啓二回顧録(Ⅳ):職業選択編②官庁訪問奮闘記

〈こっそり受験勉強〉

既述のとおり、通常の理系学生は会社訪問せずに、大学の卒論指導の教授・助教授から紹介された会社に就職するのが通例であった。通例に従わない私は、文系の国家公務員受験に向かって、こっそり・コツコツと経済学(とほんの少し法学)を勉強していた。キャリア官僚への登竜門としての、もともとは高等文官試験―略して高文―が当該試験の前身なのである。

十年後の医学部再受験勉強の際は、駿台予備校などの模擬試験を沢山受けた。十回は受けたかなぁ。「模試の効用」を認識していたから。しかし、このときは国家公務員試験の模試はなかった(今は?)ようで、教科書や過去問題集の学習のみで本番に臨んだものだ。

〈団扇片手に?〉

今でも忘れない、暑い暑い季節だった(と言っても近年ほどではない)。7月だったかなぁ。冷房なんてないような試験会場だったか、エール出版の合格体験記本で「試験会場はとても暑いので団扇か扇子を持参したほうがいい」というアドバイスがあったほど。1次試験が教養試験と専門試験で、全問選択式だった。教養試験は、高校・大学入試程度の英数国理社と「頭の体操」的な(数理的な)問題で構成されていて、全く準備していなくても(汗だくになりながら?)対応できた。東大生が国家公務員試験に強いのは、この教養問題の配点がそこそこ高いからだという話を聞いたことがある。入試受験科目の少ない私大(特に文系)卒者にとっては不利なことであろう。

1次の専門試験は、半年間の受験勉強の成果を遺憾なく発揮できたと思う。法律職受験の友人(法学部生)から、試験の後、出題された経済学の問題について訊かれ、ちゃんと答えられた。訊かれたことが嬉しかった。法律職も少し経済学が出題されるが、それらは経済職出題のものと共通で、経済職の法律問題も同様なのである。

 1次試験合格者だけが2次の記述式専門試験を受けたのか、それとも同日に1次・2次があったのか覚えていない。おそらく後者だっただろう。

 2次試験は、記述式というか、論述式というか、大問が数題出てそれに文章(数式もあったかなぁ)を書いて答えるものだった。何とか大きな余白を残さぬよう鉛筆を走らせた。試験が終了して手応えはと訊かれたとすると、応えは「?」だった。何しろ初めての経験で、ボーダーラインもわからず、どうやって答え合わせするかもわからなかった・・・。

 さて、戦いを終えて一息、というわけにはいかない。「官庁訪問」のスタートである。

〈第一志望の通産省は超難関〉

民間企業の会社訪問と同じく、中央官庁も内定を得るための「官庁訪問」が試験の後、始まる。試験の合格発表はずっと後なのに、である。

第一志望省庁は、通産省(通商産業省、現経済産業省)だった。私の霞が関への憧憬を起こさせた「官僚たちの夏」(城山三郎)の舞台だ。当然、通産省に入りたいと思っていた。だから、私が真っ先に訪問したのは通産省。だが、超人気官庁ゆえ、訪問学生の待合室は常に満杯状態であった。運動部でもなく、雄弁でもなく、しかも工学部の「経済職」という変わり者の私は玉砕だったと思う。仮に、運動部での活躍歴があり、雄弁家であっても、工学部卒の技官の多い通産省の中で、同じ工学部卒の事務官のほうが出世が早いという事態が生じるのは好ましくないと判断されていたのかもしれない(霞が関では圧倒的に事務官が技官より優位なのである)。というか、私の人間的魅力・実力ではそもそも超人気官庁・通産省はムリだったのだろう。

〈各省庁を訪問〉

 超人気の通産省への就職は厳しいと考え、他の省庁も訪問した。大蔵省(現財務省)はどうしてもえらそうな印象で訪問せず。当時の東大法学部生の中では、「御三家」としての人気官庁は、大蔵・通産・自治省であった。日本経済を動かしている大蔵・通産の人気は当たり前として、自治省(現総務省)は一般には両省ほど有名ではない。大蔵大臣・通産大臣に大物政治家が就任するのに、自治大臣にはそれほどでない政治家が就く(「陪食(ばいしょく)大臣」といわれていた)からでもあった。しかし、地方自治の総元締めで、多数の県知事を輩出している自治省は計算高い東大生には人気だった。私は「経済職」で、自治省は「法律職」が入る役所だろうと思い、訪問せず。

 東大生の中で「御三家」の次くらいに人気のありそうな、良く言えば、大蔵・通産と並ぶ「経済官庁」、悪く言えばトンカチ官庁(公共工事を多く所管しているという意味)の建設省・運輸省(両省は現国土交通省)・農林水産省を訪問した。大蔵・通産・建設・運輸・農水などは所管する特殊法人(+業界)が多く天下り先が豊富という噂で、やはり計算高い東大生には人気があったようだ。

他に、労働問題に少し興味があったのか、労働省(現厚生労働省)を訪問した。後年、医師になり最も縁のある当時の厚生省には興味がなく、訪問しなかった。

更に、「中央官庁のご案内」のような冊子があって、入省庁間もない若手官僚達が自省庁のPRしていた。その中に会計検査院の人が「残業があまりない」ようなことが書かれていたので、訪問してみようと。

〈各省庁の感触は〉

遙か昔のことだが、訪問した省庁の覚えている感触の印象等は以下のとおり。

●通産省・・・上記のとおり。まぁ、玉砕ですな。

●建設省・運輸省・・・同じビルの下半分が運輸省、上半分が建設省(逆だったかな)。両省とも、通産省ほどではないが人気あり、また、通産省と同様の理由(工学部卒技官が多い)もあったか、イマイチ採用してくれそうにない印象。

●農水省・労働省・会計検査院・・・この3つの役所は採用してくれそうな感触だった。いずれも工学部卒者が少ない役所(農水省に多い技官の殆どは農学部卒)。

結局、天下り先が最も多そうな農水省を選択した。いや、四国の農家育ちだけに、貧しい農村を豊かになるよう発展させるために、(そして、世界の食糧危機に備えて日本の自給率を上げなければならないと)農水省で頑張って働くのだという美しい信念のためだ、ということにしておこう。

●郵政省・・・「省」と名の付く役所で最も不人気だった。現業の「郵便屋」さんの印象のためか。なぜか一度訪れた。玄関ロビーに近代郵便制度の創設者・前島密の胸像があった。対応してくれたキャリアの方は、おとなしい話し方で、意欲があまりなさそうな印象だった。結局そのままで感触不明。

●警察庁・・・上記の御三家に加えて四天王?ばりの人気官庁にやがてなっていく(出世がとてつもなく早いなどの理由で)ようだが、当時の私にはそれほどの人気には思えなかった。というのは、松山東高校の先輩(京都大卒)から勧誘のお手紙(当時だから手書き)を頂いたからだ。そのときは「え~、そんなに人気ないの~」と思った。警察に興味はなかったが、せっかくお手紙を頂いたので一度訪問した。

そこで対応してくれた方(先輩ではない)のリアクションが強くて今でも忘れられない。「工学部の経済職!」に感動し、両手を挙げて大きく驚いてくれたのだ。その後のことは忘れてしまった。特に来てくれという話もなかったような・・・。まぁ、警察の仕事は「経済」より「法律」だものね。

そもそも警察に入りたいと思わなかったのは、腕っ節に全く自信のない私が犯人を追いかけたりできるはずがないと確信していたから。でも、そういう現場の仕事は叩き上げのプロがやってくれるから大丈夫だよというお話は伺ったけどね。

 思い出すに、もう一人、私の「華麗な経歴」に感動(?)くれた人といえば、元厚生官僚・元宮城県知事の浅野史郎さんだ。テレビ出演で一緒だった浅野さんと楽屋で会ったとき、私の「キャリア事務官→東大医学部」にたいそう驚いていただいたものだ。私の「変わり種」ぶりに仰天していただいた双璧が、あのときの警察官僚と浅野さんなのである。

〈訪問しなかった役所〉

ついでに訪問しなかった役所に関して述べると

●文部省・・・正しい記憶ではおそらく訪問しなかった。「経済官庁」でなく、(教育行政は)利権が乏しいと考えた打算的な私は入省したいと思わず。

●厚生省・・・既述のとおり、当時は、医療、ましてや年金などにあまり興味がなく、訪問しようという気にならなかった。

後に、農水官僚となって働いていたとき、農水省の建物の一部に厚生省援護局という部署が「同居」していたが、業務的にお付き合いすることは全くなかった。このように、複数の省庁が同じ建物に同居することは珍しくなく、「合同庁舎第⚪号」と称されていた。上述の建設省・運輸省が典型例。

●環境庁・・・今でこそ「省」だが、当時は極小官庁で、東大生にまるで人気なし。

●防衛庁・・・ここも、今は「省」。どのくらい人気あったかわからず。国防意識に欠けていた私は興味を持てなかった。

●宮内庁・・・ドン百姓の小倅(こせがれ)の私に最も向いていなそうな役所。最後の勤務先だった総務庁時代、業務で一度だけ訪れたことがある。霞が関の官庁街から離れた皇居の近くだったかなぁ、広々とした敷地に昔の小学校のような木造建物であったような記憶がある。東大生で入庁した人いるのかなぁ・・・。

〈人生最高の合格の喜びは〉

 私のこれまでの人生で、最も嬉しかったことは何だろう。「試験の合格」に限って考えると、この国家公務員上級甲種試験合格のときだったかもしれない。

東大理Ⅰ合格のときは、一浪後だけに安堵感で一杯だった。落ちたら授業料の高い早稲田大学理工学部に行くつもりだったから、貧しい実家への負担が軽くなった、それに今回の試験はまぁまぁできた、と思っていたから、喜びより「ホッ」とした安堵感であった。

東大理Ⅲ合格のときは、喜びより「意外感」であった。何しろ得点源の数学ができなかったので「落ちた」と確信していたから。後で聞いた話では、この年の数学は難問が多く、私のように数学であまり点が取れなくても合格している人が相当数いたらしい。

医師国家試験合格は、喜ぶほどのことはない。何しろ全国の受験生の9割が合格するものだから。ただ、記憶力低下した「年寄り医学生」だけに、若者よりはるかに苦労はしたと思う。

検定試験で最も嬉しかったのは、英検1級のときかな。何しろ2次試験(当時はリスニングとスピーキング)で何度も落ちていたから。

〈合格通知は省庁内定の後〉

 役所に採用の内定をもらっていても、試験の最終合格がないと当然内定は消滅する。したがって、「二股(ふたまた)」かけて民間会社訪問も始めなければならない。会社訪問については

河辺啓二回顧録(Ⅴ):職業選択編③民間会社訪問奮闘記

で述べる。

 実際に、内定もらっていながら、試験不合格で官僚になれなかった人がいる話は聞いていた。更には、その逆、つまり試験に受かっていたのにどの役所からも内定がもらえず、臍をかんだ人もいるとか。

 官庁訪問は、圧倒的に都内在住者が有利だ。地方大学の官僚志望者は東京に泊まりがけでやって来なければならない。時間もお金もかかる。一回の訪問で内定はしないから、何度か足を運ぶことになる。私らみたいに都内にいる人間は、宿泊代も不要で僅かな交通費だけで何度も官庁訪問ができる。ますます東大生が有利になってしまうのだ。

〈人事院からの郵送〉

 国家公務員上級甲種(経済)試験の最終合格は、人事院からの通知書で知った。いつの季節だったか(秋?)当時住んでいた古いアパートの郵便受けに人事院の封筒を見つけた。震える手で、だったかどうかは覚えてないが、開封してみると「合格証書」の文字が飛び込んで来た。経済職合格者90名、はっきりした成績順位は忘れたが、20番台であったことは確かだ。後に、内定していた農林水産省の人事担当者に「(経済学部でないのに)意外といい順位だったね」と褒められた(?)くらいだから。当時は不況で公務員人気は高く、しかも、今よりはるかに官僚人気があったため、このときの経済職の受験者は5千何百人いて、競争率は60倍を超えていた。「競争率」だけに限って言えば、私の受かった試験では当該公務員試験が最高の競争率、最も難関だったかもしれない。

 合格通知を手にした日の夕方、アパートのすぐ近くの行きつけのラーメン屋で一人「祝杯」を。やはり嬉しかったのだろう、(ふだんおしゃべりでもない私が)つい、店主のおじさんに合格のことを話してしまった。すると、おじさん、「おめでとう!」と大瓶のビールをサービスしてくれた。あのおじさん、もうご存命じゃないかなぁ・・・。