河辺啓二回顧録(Ⅱ):学校選択編
「人生の岐路」は、人間誰しも経験する。私は15歳まで「岐路」はなかった。地元の保育園→小学校→中学校に通うのが当然であった。
〈人生最初の選択〉
四国・愛媛県の山間部(大洲市上須戒:おおずしかみすがい)の農家の四男坊に生まれた私は、ド田舎だけに幼少期から「神童」ほどでなくともムラ一番の「秀才」だったようだ。小学生のとき、授業があまりにもやさしすぎてつまらないものだから先生の話を聞かず、お目玉をくらった。中学生のとき、「河辺君は一のことを教えると十のことを知る」などと先生に褒められた。中学3年の模擬試験で大洲市で一番になったりすると、大洲の高校でなく、松山の高校に行きたくなっていた。愛媛県で一番の高校と言えば、東大にたくさん合格者を出している愛光学園があるが、当時は高校からは入れなかった。(もし高校から入れたとしても、果たして同高校入試を受けるほど熱意はあっただろうか・・・)その次の高校としては、愛媛県立ではトップの松山東高校であった。本来「目立ちたがり屋」でない私は、大洲市内で勉強で目立ってしまったため、(愛媛県の)中央の松山東高校に行くこととした。そもそも、地元・大洲市上須戒の小学校・中学校(次項)を出た私の人生において最初の選択がこの高校進学であった。兄たちが卒業した地元の大洲高校と異なる高校であった。
〈今はなき我が母校〉
過疎地域にある母校・上須戒小学校は、私が在学中は、一学年一クラスは維持していた。私の学年は多い方で37人くらいいたが、下の学年は20人台、更に10人台と学童数はどんどん少なくなっていた。私が卒業した後も、学童数減少で複式授業(複数の学年が一つのクラス)をしながらも存続していたが、遂に2015年3月31日に廃校となってしまった。最後の全校児童数は僅か12人だったらしい。
上須戒中学校は、私が在学中に統合された。1年・2年は、上須戒中学校だったが、3年のときに大洲北中学校に統合され、「大洲北中学校上須戒校舎」となった。このときはまだ「名目統合」ということであったが、私が卒業した後1年か2年を経て「実質統合」となり、後輩たちはスクールバスで大洲北中本校舎に通うこととなった。
1年間だけ、大洲北中生となったが、学校生活は変わりなかった。大きく違ったのは、2年までの試験は、小学校のときと同様に、科目ごと単元が終わるごとに行われていたのが、(街の中学校らしく)「中間試験」「期末試験」で行われることとなったことである。本校舎と共通の試験が課されることとなったのだ。そこで「事件」が起こる。最初の本校舎・上須戒校舎共通の試験である「一学期中間試験」で、3年全校生で私がトップの成績を取ってしまった。このことに本校舎の校長が激怒したらしく、次回の期末試験からは本校舎・上須戒校舎別々で行うこととなったのである。
ほかに変わったといえば、校歌が変わった。これまでの「上須戒中学校校歌」はやめて、「大洲北中学校校歌」(及び「大洲北中学校根性の歌」←なかなかいい曲だったなぁ)を覚え、歌わされることとなった。
〈覚えている校歌とそうでない校歌〉
昨年(2023年)、ウン十年ぶりに、松山で行われた松山東高校の同窓会に、更には本郷キャンパス内で行われた東大(全学部)同窓会に出席した。どちらも最後に「全員で歌いましょう」と、高校は校歌、東大は(校歌はない)応援歌「ただ一つ」を皆で歌うこととなったが、私はほぼ100%覚えていなかった。高校も(2回通った)大学も、運動部所属していなかったせいか、記憶にない。高校では終業式などで年間数回は歌ったはずだが・・・。大学の応援歌にこういうのがあるとは知っていたが、教わったことも歌ったことも経験は皆無だ。どちらの会場でも「みんなよく覚えているなぁ」と感心しつつ、「口パク」でごまかしたのである。
しかし、上須戒小学校と上須戒中学校の校歌は、今でも出だしくらいは歌える。大洲北中の2つの校歌は聞けば少しは思い出せそうな気がする。しかし、高校・大学のそれは、全く歌えず、記憶の断片すらなかった。
〈人生2回目の選択は大学受験〉
15歳の春、意気揚々と、ド田舎の上須戒から出て、大洲の街を飛び越えて、愛媛の中心地・松山で生活することとなる。いちおう、「向学心に燃えて」松山東高に入学したことになる。ただ、同校に入ってがっかりしたことは、テストが中間・期末以外あまりないことであった。仲良しの幼馴染みの話によると、彼らの入った大洲高校は、毎週のように英単語テストを課すとか、1年生のときから全国模試を受けさせるとか、とにかく、テスト、テストで大変だという。それに比べて松山東高校のなんとテストの少ないことか・・・。愛媛県立トップの高校ゆえなのだろうか、先生方がややのんびりしている感じがした。ある先生は「生徒の自主性を重んじる」なんて話をしていた。私はその考えには与しない。若い時はバンバン試験を課してどんどん鍛えるべきだと思う。これは言い訳だが、テストがない分、私の学習意欲が低く、1年時の成績は芳しいものではなかった。(大洲高校に入学していたら私の学力はもっと伸びていたのだろうなどと思うこともあった・・・他力本願だろうな)
さすがに2年生からは本腰を入れて勉強し始めて、成績は上向いてきたが、まだ本当に効率的な勉強法ではなかったのだろう、15、16年後の東大理Ⅲに受かるときほどの学力は身に付かなかった。結局、卒業時で校内学力試験第4位くらいの実力で理Ⅰに挑戦し、玉砕してしまった。
〈東大理Ⅰ受験の理由〉
そもそもなぜ東大理Ⅰを受験したのか。
当時(1970年代)は、いわゆる理工ブームだった。特に、松山東高校では「できる奴は理系、できない奴は文系」的なムードが少なからずあって、学力試験上位50位の9割以上は理系志望者だったような気がする。先輩達も、トップクラスの多くは東大理Ⅰ、京大理学部・工学部に合格していて、少数ながら東大文Ⅰ、京大法学部に進んでいたと思う。
要するに私にはこれが好き、この学問をやりたいというものがなかった。特段苦手科目もなく、といって大好き科目もない。中学・高校時代の得意科目といえば英数だったろうが、「英数が重要」と周囲に言われてこの2教科をよく勉強した結果であった。機械いじりや科学的な実験などに興味の薄い、というかあまり好きではない私は、たまたま成績がよくて周りの「理系ブーム」に流されて理Ⅰ受験に至ったと言える。当時の松山東高校は、京大には10人近くの合格者を出す一方、東大には2人くらいしか受かっていなかった。第4位の私の学力では、京大工学部当たりが妥当だったのかもしれない。実際、過去問を解いてみたが、京大は基本的問題が多く(特に理科・社会)、東大の問題は難しく感じた。つまり、その頃は、京大は比較的易しい問題で高い合格ボーダーライン、東大は難問で低いボーダーラインだったようだ。そして、基礎学力はあるが応用学力イマイチの私は、受ければ合格したはずと思われる京大ではなく、自分に向いていない東大を受験して失敗してしまったのだ。
なぜ京大でなく、東大を受験したのか。一つには、京大工学部は、受験時に学科まで選ばなければならない(他の殆どの大学も同様)ために18歳の私にはどの学科がいいのかわからず、入学後に学部学科が選べる(実は、1年半の成績で進学振分けされる「地獄」なのだが)東大理Ⅰのほうがいいと思ったこと。また、田舎者の私には「東京」への憧れがどうしても拭いきれなかったこと。そして、ノーベル賞受賞者数で東大を凌駕する京大は確かに素晴らしい大学だが、日本社会はやはり東大をトップの大学と評価していること。
〈我が人生初の挫折〉
私の人生の最初の「挫折」が、この現役時の東大理Ⅰ落第であった。今でも「もし、現役で受かっていたら人生はどうなっていたかなぁ」などと考えてしまう。期待してくれていた高校の先生方や家族に会わせる顔がなかった。特に、昔の尋常高等小学校しか出ていない、明治生まれ、高齢の父親を喜ばせることができず、私の心は深く沈んだ。2012-01-04-scaled.jpg (1314×2560) (kawabekeiji.com)
敗北の原因は、東大の入試問題に会わせた勉強が足りなかったに違いない。何しろ、松山東高校は、愛媛県ではトップクラスの進学校だが、灘高などの中高一貫校に比べれば学習進度が遅い。数学はまだよくて、3年の前半で数学Ⅲを終わらせたと思うが、理科は遅かった。確か高3の冬になってやっと有機化学を初めて習った。私の同期でトップの渡部君は独学で先取り学習をしていたと後で聞いた。彼は同期で唯一の東大現役合格者だが、さすがである(高校時代、一度も勝てなかった男 | 河辺啓二 kawabekeiji.com参照)。
〈捲土重来〉
憧れの東京での生活は、暗い浪人生(駿台予備校生)でスタートした。もちろん、お盆も正月も四国に帰省することはなかった。
現役時の主因は数学の失敗だろう。今も昔も理系受験の合否は、配点が大きく差がつきやすい数学の出来によるところが大きい。特に数学の問題で正解に導くのに重要なのは計算力だ。もちろん天才的な人は「ひらめき」で省エネ計算で正解に辿り着くが、私のような凡人受験生は遠回りでもひたすら計算して辿り着く。正解なら同じ得点だ。というわけで、現役時計算力不足も原因で失敗した数学は、一年間計算力を増強して「捲土重来」し、本番ではかなりよく出来た。
二浪は許されないので、現役時受けなかった早慶も今回は受験して合格していた。(自信はあったが)東大に落ちたら早稲田大学理工学部に入るつもりでいた。
〔その14年後、東大3回目の受験で理Ⅲに受かったが、このときも数学ができなかった。だが、この年の数学は特に難しく、差がつきにくかったらしい。その代わり、国語がよくできて、総合点で合格ボーダーラインを超えたのだ。若いとき、国語の成績はイマイチだったが、霞が関の官僚時代に文章力が向上したせいかー霞が関文学?国会議員への忖度?―33歳の理Ⅲ受験時には国語が最も得意な科目になっていた。全国の医学部入試で国語の配点割合が最も高いのが東大なのである。〕