我が故郷「上須戒」のお国自慢

 現在住んでいる地域には全国的に有名で自慢できるものがいくつもあって、これまで何度となくこのブログで「ご近所自慢話」を披露してきた。それに比べ、生まれ育った「我がふるさと」には大した自慢話はないものと思っていた。(実際、四国地方には世界遺産が一つもない。北海道地方・東北地方・・・と日本を区分して世界遺産ゼロは四国地方のみ)世界遺産ほどではないが、私の故郷にも実は自慢話があることをつい最近「発見」したのである。

〈生まれ育った上須戒〉

 私は、愛媛県の大洲市の「上須戒(かみすがい)」という農山村に生まれて15歳の春まで、そこで育った。コンビニない、道路の信号ない(小学生のとき隣町で初めて信号機を見た)、バスは1日1回というかそもそもクルマがあまり走っていない、新聞は郵便と一緒に配達という、吉幾三の「おら、こんなムラいやだ~」と同程度の過疎地である。「こんなムラいやだ~」と思ったのか、中学卒業後、いちおう向学心に燃えて県庁所在地・松山市の進学校、松山東高校に入学した。同校卒業後、東京→群馬と、日本の中を北東方向に移動してきたのである。親が生存中は、上須戒に盆暮れに帰省していたが、そうでなくなってからは遠のいてしまった。(2024年2月18日付け河辺啓二回顧録(Ⅱ):学校選択編 | 河辺啓二 kawabekeiji.com参照)

〈歴史上の有名人と上須戒は関係あった!〉

 「ふるさとは遠きにありて思うもの」というものの、忙しい日常において「ふるさと・上須戒」を思い出すことは殆どないが、先日、何の拍子か、ネットで「上須戒」とあのシーボルトが関係あることを知ってたいそう驚いてしまった。

 生を受け、上須戒保育園→上須戒小学校→上須戒中学校(途中で大洲北中上須戒校舎)と15年もの間、上須戒に住んでいたが、親や兄姉たちからも、小学校・中学校の先生からも、もちろん友達からも、そんな話を聞いた記憶がないのだ。?である。

〈歴史に残る二宮敬作〉

 恩師シーボルトの娘イネを、「シーボルト事件」(※)の後に、シーボルトに頼まれ養育したのが、幕末の理学者・蘭方医の二宮敬作(にのみやけいさく。1804~1862)であり、その敬作の妻イワの故郷・上須戒で、約2年半蘭方医を開業したということだ。ここで薬草を育て、上須戒の村の人たち(私の曾祖父母もかな?)や、金山出石寺(※※)への参詣に往来する人たちを診療していたという。その開業していた医院・家の跡があり、「二宮敬作住居跡」の案内板が立っているらしい。

※シーボルト事件・・・江戸時代後期の1828年文政11年)に、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、日本国外への持ち出しが禁止されていた「大日本沿海輿地全図」などを持ち出そうとして発覚し、国外追放処分を受けた事件。シーボルトに地図を贈った幕府の書物奉行天文方筆頭高橋景保をはじめ多数の関係者、蘭学者が幕府によって処罰された。

※※金山出石寺(きんざんしゅっせきじ)・・・愛媛県大洲市に所在する真言宗御室派別格本山の寺院。金山(きんざん)、光明院(こうみょういん)と号す。本尊は千手千眼観世音菩薩。山号を冠して「金山出石寺」と呼ばれるとともに、地元では親しみを込めて「おいずしさん」と呼ばれる(私もそう呼んでいたなぁ)。

〈二宮敬作についてもっと知らなくてはならないね〉

 シーボルトといえば、日本史で少し勉強した程度で、妻の「お滝さん(楠本滝)」くらいなら聞いたことがあるが、その娘「楠本イネ」(日本初の女医の産科医)、弟子の二宮敬作、その妻イワなんて聞いたことがなかった。イワさんの実家が「西」というらしいが、上須戒に「西山」という名字の人はいたけど「西」なんて名字、いたっけ・・・。

 ちなみに、二宮敬作は、富士山の高さを初めて実測した理学者であり、高野長英や大村益次郎といった歴史に名を残す人物とも親交があったという。

伊予細見 /連載「伊予細見」「第75回上須戒紀行-二宮敬作住居跡をたずねる」に詳しく書かれている。

伊予細見 /連載「伊予細見」「第61回二宮敬作の故郷」