「人生の壁」
〈養老先生の新作〉
久々に養老孟司先生の新著を拝読した。87歳という高齢だが、いつものとおりわかりやすい文章、そして読んでいて頷いてしまう、相変わらずの慧眼ぶりに尊敬の念を高められずにはいられない。
全くの私見だが、そもそも文系出身者の著書より、髙橋洋一氏や藤原正彦先生(2023年2月19日付け数学界以外で活躍する東大数学科卒 | 河辺啓二 kawabekeiji.com)のような理系出身者の著書のほうが概ね論理的で読みやすい、わかりやすい印象だ。
〈いちおう養老先生の教え子〉
医学生時代、養老先生の講義は、何度か受けた。当時、先生は50歳代だった。30歳代のおじさん医学生だった私は、最前列に座って真面目にノートしていたはずだ。
先生の印象だが、まず容貌。「えらい髪の多い先生だなぁ」。50歳代ともなると、頭髪が薄くなる男性が多いが、フサフサと大量の頭髪だった。80歳代後半の今でも白髪ながら依然フサフサである。そういえば、養老先生の更に先輩(東大医学部卒)でノーベル文学賞候補だった安部公房も髪毛が大量だったなぁ。
次に話し方だが、決して雄弁という感じではなく、声もやや小さく、悪く言うと、少しボソボソって感じかなぁ。注意して聞かないと聞き逃すかもしれなかった。
ま、それは先生の個性だが、とにかく、「解剖学」の講義なのだが、話の内容が多岐にわたる、まさに「養老孟司教授教養講座」という講義だった。医学のみならず、文学、歴史等のあらゆる分野に関する博覧強記ぶりには「さすが」と感じざるをえなかった。退官後数々の名著やベストセラーを生み出す徴候の片鱗を垣間見たということだろう。
〈採点は大甘の養老先生〉
となると、これほどの大先生、試験を厳しくして学生を絞り上げるなんてことするはずがない。学期末の「解剖学」試験が行われた。よその私大医学部の試験は、身体の各部位―筋肉や骨などーを日本語のみならず英語名まで覚えなければならないらしかったが、東大ではそこまで求められなかった。
(全般的に東大医学部の試験は厳しくなかった。こういう東大の甘さのためか、入学時に大きな学力差があっても、卒業時点では他大学との差がなくなっているのである。)
試験は、面接方式だった。大学の試験で筆記でない試験は、後にも先にもこのときだけだ。5人くらいのグループごとに順番に教授室に呼ばれて入った。何グループか終わった後、午前の終わり頃、私たちのグループが呼ばれた。先生の質問は、「そろそろ昼飯の時間だね。では食べた物が通過する消化器を上から述べてみなさい」であった。当然、楽勝問題であった。こんなんで単位もらっていいんかいなと思ってしまった。成績はAだったかなぁ。覚えていないが、合格は合格だった。
〈新著「人生の壁」を読んで〉
さて、新名著の「人生の壁」だが、「子どもの壁」「青年の壁」「世界の壁、日本の壁」「政治の壁」「人生の壁」と5つの章に分けて論じている。どの章にも、養老先生らしい鋭い意見が述べられているが、印象に残ったいくつかのことを以下に述べる。
●西洋の思想が世界を覆った
「WEIRD」というらしい。Western(西洋の)、Educated(教育を受けた)、Industrialized(工業化された)、Rich(金持ちの)、Democratic(民主主義)の頭文字だが、「奇妙な」と意味がある。西洋文明―現代科学技術のみならず西洋思想が世界を覆ってしまった・・・。
●日本は暴力支配の国だった
鎌倉時代以降、明治維新、太平洋戦争で負けるまで、武力を持つ人が実際の政治権力を握っていた。頂点に天皇がいても、実質的にはそのときの幕府・政府が日本を舵取っていたのだ。つまり、今のロシアや中国の政治を否定的に言う際に、つい最近まで日本は長らく暴力支配の国だったということをしっかりと胸に刻んでおかなければならないということだろう。
●大災害が日本を変える
災害大国・日本で、ひとたび大震災が起きれば、役に立つ組織は自衛隊くらいだと。阪神・淡路大震災、東日本大震災、そして能登半島地震でも、自衛隊がさまざまな形で力を発揮してくれた。しかし、戦後、日本は軍隊(自衛隊)をずっと後ろめたい存在で扱ってきた。憲法9条「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」との関係だ。この後ろめたさと災害時の自衛隊の重要性とをどうバランス取るか。
(石破首相の「防災庁」構想はどうなっているのかなぁ)
●自給自足を基本に考えるー日本はどこまで自立できるか
「大地震を念頭に、これからのことを真面目に考えれば、日本という国が、今までと同じようなやり方で生き延びていくのはかなり難しい」と結論されている。経済を含めた「自衛力」が問題だと。「いずれアメリカの属国になるか、中国の属国になるか、その選択を迫られるかもしれない」・・・極めて衝撃的に聞こえるが、南海トラフ等の大地震に襲われてその復興のためにどちらかの大国を頼らなければならない状況が生じる可能性は確かに小さくないと感じる。