分福茶釜の茂林寺―ご近所「自慢」話の続編―
〈館林も太田からは近い〉
太田市ではないが、近いのが館林市。ここは「上毛かるた」の「つる舞う形の群馬県」の鶴のアタマの位置にある。ちなみに私の住む太田市はクビにある。
館林には、全国的に知られている「ぶんぶくちゃがま」のお寺がある。茂林寺(もりんじ)という。「ぶんぶくちゃがま」は、四国にいた少年時代の私でさえ、本で読んだのかどうか覚えていないが、しっかりと記憶する単語である。「ぶんぶくちゃがま」は漢字で「分福茶釜」と書く。以下は漢字で表記することとする。
茂林寺の宝物として、伝説、物語等で知られる「分福茶釜」は、16世紀、老僧・守鶴(しゅかく)がこの寺に持って来たとされる。「分福」は、この釜の湯茶を飲んだ者には福を分け与えるからであるらしい。
おとぎ話では、和尚が手放した茶釜(狸の化身で、頭・足・尻尾が生える)が、綱渡りなどの芸をし、これを見世物商売に屑屋が財を築き、茶釜を元の寺(茂林寺)に返還することになっているようだ。
この綱渡り話があまりに有名だが、実は以下が「正史」らしい。
正通和尚が旅の途中で出会った守鶴に弟子入りを嘆願される。やがて、師弟二人は、連れ立って旅をし、今の館林に着き、茂林寺の前身たる草庵を建てた。守鶴の正体は、「狢(むじな)で、天竺から唐に渡って500年余、また日本に来て約800年も経た」と記録されているらしい(←まさに化け物、怪物ですな)。
茂林寺は、現在も文福茶釜を所蔵する。ただし寺の縁起は、狸の化けた釜とはせず、古狸(貉)の老僧守鶴愛用の「福を分ける」分福茶釜であるとする。千人の僧が集まる法会で茶をたてたが、一昼夜汲み続けても釜の湯はなくならなかったと記される。不思議に思いその訳を訊かれると守鶴は次のように語ったという。
「これは分福茶釜といって、何千人で飲んでも尽きることがない、殊にこの釜には八つの功徳がある。中で福を分ける故に分福茶釜という。一度この釜で煎じた茶でのどを潤す人々は、一生渇きの病になることはなく、第一文武の徳を備え、物に対して恐れることがなく、知恵を増し、諸人愛敬を添え、開運出世をし、寿命長久である。」
その後、守鶴が眠っているときに狢の正体が見破られたために、彼は寺を去ったらしい。
正確に言うと、むじな(狢・貉)はあなぐま(穴熊)の異称でイタチ科であり、たぬき(狸・貍)はイヌ科であるから本来は全く異なる動物なのだが、狸を狢と混同することは国語辞典でも認められている。
〈タヌキだけではない館林〉
館林の道路を走行すると、(でかい睾丸の)タヌキ像をいくつも見かけるような印象があるが、館林といえば分福茶釜だけではない。
つつじが岡公園―新田義貞が植えたと伝えられる、樹齢800年のヤマツツジの巨木もある。五代将軍となる徳川綱吉などの歴代館林城主にも手厚く保護・育成されてきたつつじの名勝地。
日本遺産「里沼(さとぬま)」―館林の沼は人里近くにあり、「里山」と同様に人々の暮らしと深く結び付き、人が沼辺を活かすことで良好な環境が保たれ、文化が育まれてきた「里沼」である。
田山花袋記念文学館―中学だか、高校だかの国語の「文学史」で、「田山花袋―自然主義―『蒲団』『田舎教師』」を覚えたくらいで、文学青年でない私は一度もその作品を読んだことがないなぁ。
向井千秋記念子ども科学館―昔は、館林が生んだ有名文化人といえば田山花袋だっただろうが、今はこの宇宙飛行士、向井さんだろう。私が訪れた日曜日、田山花袋記念文学館はすいていたが、こちらの科学館が子ども連れのファミリーで大賑わいであった。